日本翻訳連盟(JTF)

2-2 字幕の中に人生

戸田 奈津子

東京都出身。津田塾大学英文科卒。好きな映画と英語を生かせる職業、字幕づくりを志すが、門は狭く、短期間のOL生活や、フリーの翻訳種々をしながらチャンスを待つ。その間、故・清水俊二氏に字幕づくりの手ほどきを受け、1970年にようやく『野生の少年』、『小さな約束』などの字幕を担当。さらに10年近い下積みを経て、1980年の話題作『地獄の黙示録』で本格的なプロとなる。今までに担当した作品は、『E.T.』、『インディ・ジョーンズ』、『フォレスト・ガンプ』、『タイタニック』、『007シリーズ』などの人気作を含め、1,500本を超える。来日する映画人の通訳も依頼され、長年の友人も多い。
 
報告者:渡邊 健(インハウス翻訳者)
 



翻訳家を志すということ

翻訳の役目をたとえると、接点がない二つの場所の間に「橋」を架けること。プロの翻訳家を目指すのなら、どのような「谷」にどのような「橋」を架けたいか、つまり自分の専門分野を明確にするべきだ。私の場合は、それが映画だった。ひとたび分野を決めたら、それを「誰にも負けない」というほど徹底的に勉強すること。

何かが「好き」であれば、人に指示されずとも勉強する意欲は自ずと湧くもの。私が英語を勉強し出したのも映画好きだったからで、映画がなければ英語も勉強しなかっただろう。日本が戦争に負け、戦時中は禁止だった外国映画が解禁されたのは小学生のとき。テレビのない当時、動く画を始めて観た私は衝撃を受け、そのときから映画にはまり、映画を観まくった。外国映画の台詞を理解したいという思いから、英語は率先して勉強した。「好き」という気持ちが人を動かす最大のモチベーションなので、まずは「自分は何が好きな人間か」を認識することが大切だ。

私が字幕翻訳家を志したきっかけは、『第三の男』というイギリス映画。この映画が大好きだった私は、東京中の映画館を追っかけ、50回は観て字幕も全て暗記した。その中の「今夜の酒は荒れそうだ」という台詞を「カッコいい」と思った。英語をよく聞くと「I oughtn’t to drink it. It makes me acid.」と言っている。ここでの「acid」は、「酸性」と「気分を害する」のダブル・ミーニングになっている。この4秒程度の台詞のエッセンスを「一秒三文字」の制限内で的確に表した名訳に出会って、「字幕翻訳は面白そうだ」と感じた。

日本で字幕が普及した理由

20世紀初めにサイレント映画が登場し、それがトーキーになってから「映画の内容をどうやって外国人に分からせるか」が問題になった。選択肢はアテレコと字幕の二つ。そのとき、日本以外のほとんどの国はアテレコを選び、字幕を選んだのは日本ぐらいだった。声優を何名も雇い、スタジオを長く借りる必要のあるアテレコはコストがかかるが、字幕は翻訳者に翻訳料を払えば済むので、経済的な事情で字幕を選んだ国はあった。それでも、比較的お金に余裕のあった日本が字幕を選んだのは、①観客の需要、②「本物」を好む真面目で几帳面な国民性、③100%に近い識字率という背景があった。この時代に字幕翻訳を担当したのは字幕翻訳家の「第一世代」で、私は「第二世代」にあたる。

このように字幕大国だった日本も、現在では、活字離れの影響からか若い世代には圧倒的にアテレコが支持され、字幕は押され気味だ。アテレコと字幕を比率で表すと、今は5:5ほどで、いずれ7:3程度になるだろう。それでも、コストの安さから字幕が消えることはないと思われる。

字幕翻訳の勘所​

「第一世代」のある先輩が、「翻訳には二種類ある。それは、忠実なる醜女(しこめ)と不実なる美女だ」と仰った。「忠実なる醜女」とは、原文に忠実だが日本語として不可解な訳文を表し、「不実なる美女」とは、原文からは離れるが日本語としては読み易く違和感のない訳文を表している。技術翻訳等では「忠実なる醜女」が許されても、字幕翻訳では違う。そのいい例が、名画『カサブランカ』の名台詞「Here’s looking at you, kid」が、直訳の「君を見つめて」ではなく、「君の瞳に乾杯」とドラマチックに訳されたこと。原文には「瞳」も「乾杯」もないが、名訳として語り継がれている。このように、映画の台詞は感情に訴えるように訳すことが大切だ。

また、アテレコでは定番の「~でしょ」のような語尾表現も、字数制限が厳しい字幕では普通は使わない。そのため、字幕の原稿だけを読むとぶっきらぼうな印象を受ける。しかし、俳優の感情が籠った台詞が耳から入ると、不思議と「字幕にも感情が籠っている」と観客が錯覚する。そこを計算に入れるのだ。もちろん、脚本家が血の滲む思いで考えた原文はあくまで尊重するが、その上で日本語として成り立つ訳を目指す。まるで非常に細い線の上を歩くような仕事で、一歩でも間違うと踏み外してしまう。

 次に、映画字幕を翻訳する際には、頭の中ではいつも俳優になって芝居をし、登場人物の気持ちになって台詞を訳している。例えば、男女のラブシーンでは、男の台詞はその男の気持ちになり、女の台詞はその女の気持ちになって訳している。これは俳優より忙しい作業だが、私にとってはとても楽しい。

また、あまり強調されないが、訳文のリズムも大切だ。映画はストーリー性があるので、字幕のリズムが悪いと物語を追う思考が途中で止まってしまう。私の場合、映画一本分の字幕が仕上がると、頭を真っ白にして自分の原稿を最初から読み直す。そのとき、どこかで引っかかる箇所があれば、また新たな訳を考え直す。特に日本語はリズムを重んじる言語なので、「先を読みたい」という衝動を掻き立てる訳文を作ることが重要だ。

コメディの翻訳の難しさ

数ある映画ジャンルの中でも、コメディの翻訳が決定的に難しい。日本と米国ではユーモアの感覚が違い、英語のジョークは頭を使うものが多く、一定の素地がないと理解できないからだ。例えば、今年12月に日本で公開される『007スペクター』では、自作の車をボンドに壊された人物が「I thought I told you to bring it back in one piece. Not one piece.」とダジャレを言う。前者の「in one piece」は「無傷で」、後者の「one piece」は「一つの部品」を表し、「in」があるかないかで意味が全く異なる。こういう英語の言葉遊びは当然ながら日本語に訳しても伝わらない。翻訳書であれば訳注で解説できるが、字幕映画ではそうはいかないから苦労する。

現役の翻訳家へのアドバイス​

翻訳家というと「外国語に達者」と思われがちだが、外国語が上手いのはプロとして当然のことで、決め手となるのは日本語の力。日本語を上達させるには、「ハウツー本」ではなく、文学書等を通じて良質の文章に多く触れるのが最適。私の場合、三島由紀夫の作品から日本語の語彙がいかに豊かかを学んだ。

また、字幕翻訳も含めて、翻訳業界は概してお金のある世界ではなく、お金儲けを目当てに飛びつくべきではない。外からは華やかに見える映画界も例外ではなく、宣伝費も回収できずに劇場を降ろされる映画が大半である。それでも、映画会社の人々は「映画が好き」だから働いている。金銭よりも「好きなことをする喜び」が勝ることもあるからだ。

私も駆け出しの頃は、報酬を度外視してでも翻訳をやりたいと考えていた。というのも、昭和初期に字幕を担当していた字幕翻訳家の「第一世代」は、多くて10人程度で全員男性。そのうち本当のプロは5、6人ほど。その先輩方が字幕業界を牛耳って、周囲に「壁」を築いていたため、どこからも入る道はなかった。だが、どうしてもこの仕事がしたかった私は、その壁の周りを20年間まわり続け、その後にやっとチャンスが巡ってきた。どの世界でも、自分の望む仕事が向こうからやって来ることはあり得ず、自分から挑戦して掴む姿勢が大切。そして、仮に夢が叶わなくても、全ての責任を自分で引き受ける覚悟が必要だ。

日本の映画鑑賞者に願うこと​

今の日本では若者の映画離れが進んでおり、映画に人生を捧げた私にとってこれは憂うべき現象だ。米国では、週末に家族そろって映画に出かけるのは今でも当たり前の光景。また、映画を青春時代に見るからこそ映画好きになるのであって、定年頃から急に映画への興味が湧き出す人はあまりいない。子供時代から「映画を楽しんだ」という感覚を植え付けないと、映画人口は増えないだろう。

日常はちっぽけなものだが、フィクションを通じてイマジネーションを働かせれば、どこへでも飛んで行ける。仮に二、三時間でも現実から離れて別世界の楽しさを味わわせてくれるのが映画だ。小さな枠を飛び出して未知の体験ができる映画というメディアの楽しさを、アテレコか字幕かに関係なく、若者たちにもっと知って欲しい。
 
 
 


 

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