日本翻訳連盟(JTF)

「手話」という言語をめぐる社会言語学的諸課題(前編)

講演者:群馬大学教授 金澤貴之さん

日本翻訳連盟主催の 2023 年翻訳祭から選りすぐった講演の抄録をお届けします。今回は、群馬大学教授の金澤貴之さんの「『 手話』という言語をめぐる社会言語学的諸課題」前編です。手話は、音声言語と同等の機能を持つ体系化された言語であり、日本には「日本手話」があります。しかし、日本手話を取り巻く特殊性についての社会言語学的な説明や一般的な理解は十分とはいえないのが現状です。前編では、ろう教育における手話の歩み、手話の普遍性と音声言語とは異なる特徴、ろうコミュニティの継承形態、独自の言語的マイノリティとしてのろう等についてお話いただきます。

●「手話は言語なのか」という問い

皆さん、こんにちは。群馬大学の金澤貴之と申します。今回のテーマは「手話という言語をめぐる社会言語学的諸課題」と題していますが、実は私自身は言語学が専門ではなく、ろう教育、聴覚障害児の教育が専門で、研究の方法論として社会学的なアプローチをしてきたという立場になります。言語学についてはにわかかじりなところもありますが、ろう教育という立場で手話の問題と向き合っていく中で、手話が言語としてみなされるようになってきた過程をずっと追いかけてきている立場からお話できることがあるかと思い、お引き受けした次第です。

まず、手話が言語であるということですが、実は「手話が言語であるかどうか」については、思い切って言ってしまうと誰も証明してないと私は思っています。そもそも、あらゆる言語について、「それが言語なのか」という観点で言語学者は研究をしていないと思います。言語であるという前提のもとに、その機能について、A という言語ではある表し方をしているものが、B という言語ではそれと違ったどういう表し方をしているとか、どんな機能があるのかという中身のことを調べているわけです。

ところが、手話に関しては「言語なのですか」という問いがなされてきました。もっと言えば、少し前までは言語だとみなされていなかったということなんですね。だからこそ、否定されたものを肯定しようとするとけっこう無理な証明をしなければいけないという難題を、手話という言語はずっと吹っかけられてきました。特に、ろう教育関係者から無理難題を吹っかけられてきたところがあります。

●手話が禁止されていた時代

明治に入ってろう学校が始まってから、特に大正時代から「手話は使わないほうがいいんじゃないか」と言われ始め、昭和の初期に入ってから 70~80 年ほどの長い間、ろう教育の場で聞こえない子どもが手話を身につけないように、禁止してきた歴史があります。

なぜそうなったのかというと、聞こえない子どもに音声日本語、書き言葉ではなくて音声日本語を身につけさせようと、教育関係者は一生懸命頑張ったわけです。聞こえないけれども発音ができるように発音の訓練をしたり、口の動きで言葉を読み取れるようにしたりするなどですね。

けれど実際は、口形がほとんどあるいは全く同じな言葉がたくさんあり、たとえば「さだまさし」と「すだまさき」はほとんど区別できません。そして、聞こえないまま発音するのはけっこう無理があるんですね。それこそ冬にガラスに息を吹きつけて曇らせて「は行」を練習するとか、コップに水を入れてうがいをガラガラガラとやって、これが「か」だよとか、そういう非常に原始的な方法も駆使して音声日本語を身につけさせようとしました。

しかし、先生が躍起になればなるほど、先生たちの思いとは裏腹に、子どもたちは自分たちの間で何やらよくわからない手を動かしているわけです。手話がわからない先生たちから見た、子どもたちが身振りのように手を動かして何かをしている様子を評して、「手まね」「猿まね」をしていると言われました。それがいわゆる手話ですから、「手まねはやめましょう」と学校で標語が書かれて、手話をしようとすると先生から怒られる。そういう歴史がけっこう長く続きました。

●ろう学校における手話の容認

そんな背景がある一方で、聞こえない子どもに音声日本語を身につけさせるという試みが必ずしも成功していたわけでもありませんでした。もっとも戦後になって補聴器が進化してきたことによって、聴力がある程度活用できる子どもが音声日本語を身につけられるようになっていったところはありました。

けれども、難しい言葉は難しいままなので、1990 年ぐらいになって、やはり音声日本語を身につけさせることが難しい子どもがどうしてもいるという問題から、手話も使っていけばいいのではないかという動きがいくつかのろう学校で起きてきました。それで、「禁止することはなかったじゃないか」という流れがなんとなくできてきて、雨後のたけのこのように 1990 年代後半から 10 年ぐらいの間に一気に、ろう学校で手話を使うようになっていきました。

手話を使うようになっていったというのは、先生の多くは聞こえるので音声日本語を話しながら手話単語をつけていくという表し方をするのですが、大事なポイントはそこではありません。ポイントは、子どもが使う手話を容認することになったことです。ここでは先生が手話がうまいか下手かというのはあまり大した問題ではありません。

聞こえない子ども同士が手話で話す世界を容認するようになると、聞こえない彼らの中にまさにネイティブな手話環境が用意されたわけです。そこで日本手話を獲得し、日本手話でコミュニケーションをして、日本手話で物事を考えるような子どもがどんどん育っていきました。少し言葉を足すと、それ以前もろう者は手話を身につけていましたが、それは、先生の見えないところや寄宿舎で先輩から教わるなど、先生のいないところで脈々と手話は受け継がれていったのです。

そんな背景があるからこそ、「手話は言語なんですか」という問いが、ろう教育をしている側から発せられるという状況がありましたが、ここ最近は、手話を学校や先生たちも認める中で、子どもたちは手話を使って自由に学ぶ環境ができつつあります。

たとえば手話言語学者は、手話ではこのような複雑な表現もできる、日本語にあるような複文構造などは手話でもできるといった説明をしたりしています。脳科学では、失語症の脳損傷を起こした人の損傷の部位によってどのように言語を操る機能が変わっていくか、言語の運用状況が変わっていくかといったところを分析すると、ろう者の失語症の人と聞こえる人のそれとで、同じように手話を使う状況が損傷されていくということがわかりました。手話の理解が難しかったり、逆に手話の表出が難しくなったり、聞こえる人の脳損傷と同じ現象が起きてくるということで、人間の脳は手話を言語として扱っているということがわかってきました。そのようなことが近年、研究で発見されてきています。

●言語の普遍性が手話にもある

そこで、「手話が言語である」ということでどんなことが言えるのか、あるいは、言語であるためには、どんなことが言えなければならないのかという観点で、ちょっと考えてみました。

言語の普遍性が手話にもあるということで、日本語や英語や中国語などがあるように、日本手話、アメリカ手話、中国手話などがあるということになります。

なぜこれをわざわざ言わなければいけないかというと、手話というと、「世界共通なんですよね」としばしば聞かれるからです。いやいや、手話が世界中のいろいろなろう者の間で自然発生的に出てきたものだったら、それが世界共通になるほうがおかしいと思うんですけど、「世界共通である」と言われる。でも、そうじゃないということが一つあります。

そのうえで言語であるなら、言語が持っているいくつかの機能や特徴が手話にもある、たとえば二重文節性が手話にもあるという語り方がされているわけです。

●音声言語とは異なる手話の特徴

そして、音声言語とは異なる特徴として、言語としての特徴はあるけれども、音声言語とはちょっと違う形で現れるということが指摘されています。

音韻は、あらゆる言語の中で必要なものですけど、その音韻が手話の場合は手を使うことになります。手の形、位置、運動、手の向き、この要素によって単語が特定されていくということですね。この 4 つのパラメーターのうちの 1 つが変わると違う単語になります。

たとえば手の形。人差し指で一本指の形なら、この一本指の形を顎に内向きに接触をさせると「変」という意味になります。接触する場所を変えて、頬に接触させると「嘘」です。こめかみに接触させると「思う」となるわけです。今度は接触している場所から離す、つまり手の動きを変えると「思う」ではなくて、「思いつく」という意味になります。

これが身振りとも大きく違うということにもなるわけです。物の形とか様子を体や手を使って表す身振りが連続体だとすると、手話はそうではなくて、記号の組み合わせによって成り立っているということです。そして、眉や顎、目線などのノンマニュアル(NM)といわれる非手指が、文法標識の機能を果たすことになります。

「CL」や「RS」など手話言語独特の方法があることも、手話言語学では割と強調して指摘されるところです。

CL というのは Classifier(クラシファイアー)なので、CL 自体は手話だけでなく音声言語にもあるのですが、まさに視覚言語である手話の特徴ゆえに、物の形を、手を使って表すということについて非常に特徴的で面白いということです。

RS は Role Shift(ロールシフト)とか Referential Shift(レファレンシャルシフト)といわれますが、こちらも手話でなければ存在しないということではないのですが、手話ならではの RS の豊かさのようなものがしばしば取り上げられます。

それから同時性です。同時性については、誤解のもとでもあるような気がしています。手話は空間を使うから同時に複数の要素を表すことができると言うのですが、そうは言っても、手話も音声言語と同じように、基本的には線状でリニア(直線的)に伝わっていくものです。順番に話をしていく中に局所局所で、起点と終点の両方が同時に表されたりすることも一部には出てくることがあります。

ただ、やはり同時性は大事な特徴かなと私自身思うところもあります。群馬大学では、手話を学生に習得させる授業がしっかり用意されています。そこで手話習得の状況を見ていると、やはり難しいのは眉上げとか NM なんです。NM の習得が難しいのは、音声言語にはない同時性が難しい理由なのかなと思います。手で表しながら眉も上げるというようなことが、普段やり慣れてない聞こえる人にとってはけっこう難しくて、これが手話の同時性の中で一番のポイントかなと思います。手の場所で複数の情報を同時に与えるということもありますが、基本的には線上で表されていく中の一部に過ぎないと私は思っています。

また、他の言語と同様に、集団の確保が必要です。「ろう学校が必要だ」とろう者が求めているのはそこなんですね。インクルーシブ教育をしている中で、手話も使いましょうというのではなくて、聞こえない子ども同士の集団が必要だということです。

そして、大人になってから身につけようとしても限界があり、ネイティブサイナーにはなれない。これは他の音声言語でも同じですよね。

●手話は美しい...?

手話は美しいとよくいわれますが、私はこれにクエスチョンマークを付したいと思います。手話を美しくないというつもりはないのですが、他の言語もそれぞれ魅力があり、手話にも魅力があるという話かなと思うからです。

また、絵画や映画のように「見てわかる」「見て伝わる気がする」と言う人がけっこういます。手話がわからない、手話を習得していないのに見ていてわかる気がすると。

それはそうではなくて、手話のまさに「RS」の「行動 RS」と言われる、語っている中で、その人がその時その動作をしているさまを再現する表し方があるんですね。そういうのを見てそう感じたり、物の形を CL で表すのを見て、何か伝わるような気がするという話です。たとえば絵本の読み聞かせだとすると、本当に映像が浮かぶようだったりします。でも、専門用語が羅列されているような専門的な話だったら、見て伝わるはずないわけです。

これは音声言語でもあることです。声帯模写で鳥の鳴きまねやゴジラの鳴き声ができますよね。あるいはオノマトペ。これも音が元になっていたりします。音が元になって、日本語の音韻に当てはめて記号化されているものではありますが、いずれにしても、音声が元になっているものは日本語にもあります。だから手話が特別ということはないと思うわけです。

皆さん、こう言われたらどう思いますか。「日本語は様子をそのまま音で表している。聞いているだけで伝わる気がする」。確かに特に関西の人はオノマトペが多くて、「ピューと行ってキュッと曲がって、ドーンとぶつかったところでクイッと見上げるとシュッとした建物がある」といったような表現をします。やたらと擬態語やオノマトペがいっぱいありますけど、音だけで全部わかるという話ではないですよね。でも手話は「なんか見てわかる」と言われてきたところがある。「美しい」を強調しすぎると、逆に本質を見失う気もします。

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