日本翻訳連盟(JTF)

MT/AI 翻訳時代にクライアント企業が求める翻訳者像
~Red Hat の事例より~

クライアントの声 第 1 弾

レッドハット株式会社
グローバルサポートサービスローカリゼーションサービス部部長
燃脇 綾子 氏

MT/AI 翻訳の進化をうけて、昨今、翻訳者の将来が積極的に議論されています。そんな中、企業は翻訳をどうとらえているのか、求められる翻訳者像とは、MTPE の課題とは、翻訳者が活躍するためには何をすべきかを、米国 IT 企業 Red Hat の事例をもとにご紹介させていただきます。

●クライアント企業における翻訳とは

産業翻訳は多くの場合、翻訳物そのものをお客様に販売しているのではありません。たとえば、弊部はIT製品のドキュメント翻訳を担当しておりますが、弊社はあくまで製品やサービスをお客様に提供しているのであって、製品ドキュメントはそのサービスの一部、特に翻訳は単なる付属物でしかありません。

また、弊社のようなBtoB事業を展開する企業であれば、お客様は弊社のサービスを利用して、自社または顧客に製品またはサービスを提供します。お客様は、提供される製品やサービスに、自分たちが求める機能が存在するか、価格は妥当かなど、じっくり検討されたのちにご購入となります。このような場合、翻訳は、商業的に妥当なレベルでのご提供を目指すことになります。

では、商業的に妥当なレベルとはどのようなものなのでしょう。

まずは品質について考えてみます。翻訳者はよく「高品質」「最高品質」という言葉を使います。しかし、お客様が求めるのは、購入した製品やサービスを使うのに十分な品質となります。では、どの点が異なるのでしょうか。

翻訳者は、提供された原文をじっくり読み、十分な調査を行い、辞書を引き、その文章が伝えたい内容を訳文に反映します。1つの文章を理解するのにかかる時間は時に何時間にも及ぶといいます。しかし、コンテキストを理解するのに、その数時間で十分なのでしょうか。

考えてみてください。企業が提供する製品やサービスをご利用になるユーザーの知識は、その数時間でマスターできるような基本的なものなのでしょうか。コンテキストの理解、それは翻訳者に提供される文章と資料、そして翻訳者が独自に行う十分な調査だけで得られるものではありません。

たとえば、弊社のサービスをお使いになるお客様、また広く一般的に言えばIT技術者がもつ知識があって初めて、その文章そしてコンテキストを正しく理解できるようになります。数時間でその文章を完璧に理解したと考えるのは、はたして正しいのでしょうか。実際、翻訳者が完璧に理解し、完璧な訳文を作り出したと思っているものが、ユーザーが期待する水準に達していないという場合も少なくありません。つまり、ユーザーが望み、企業が目指すべきなのは、翻訳者が考える高品質の翻訳ではなく、ユーザーが感じる十分な翻訳です。

では、ユーザーにとって十分な品質とはどういうものでしょうか。必要な情報が十分に記述されているかどうかが重要となります。十分に記述された以上の品質、つまりちょっとした表現の違いはプラスではありますが必須要件ではありません。したがって、十分に記述されているのであれば、機械翻訳も当然選択肢となります。機械翻訳で十分でなければ、足りない分を人間がカバーします。

ここで、もう1つの要素、翻訳の量について商業的に妥当なレベルを考えてみましょう。たとえば、自社または顧客に製品またはサービスを提供する企業が、これまで活用していなかったシステムとして弊社の製品やサービスを導入したとします。この場合、製品ドキュメントが非常に重要になります。自分たちが求める機能をどう使うか、必要な設定ができているか、発生した問題にどう対応すればいいのかという点を調べるために、お客様は日々製品ドキュメントを使用します。

このとき、日本語で読めるかどうかが非常に重要です。しかし、弊部では、すべての製品ドキュメントを人手翻訳で行うことは予算の都合でできません。なぜなら、お客様は、製品やサービスをご購入される際に、自分たちが求める機能が存在するか、十分な製品ドキュメントが用意されているかだけでなく、価格が妥当かも検討されるからです。

たとえば、すべての製品ドキュメントを複数言語に翻訳するために製品やサービスに大幅な値上げが必要になったとしたら、それはお客様にとって妥当な価格設定とは言えません。したがって、機械翻訳が導入されるまでは、頻繁に使用されるドキュメントしか翻訳されていませんでした。この問題は、弊部のような翻訳部門、また広く言えば翻訳業界が抱える一番の問題でした。

これが、機械翻訳の進化によって劇的に改善されるようになりました。翻訳を増やすために、生の機械翻訳を選択する企業も、ポストエディットを導入する企業も増えてきました。これは、従来の翻訳に慣れた翻訳者にとってはあまり望ましい選択肢ではないかもしれませんが、このように企業にとって、効率化という命題は無視できるものではありません。

社員をはじめとした翻訳者に無茶をいうことはできないため、無理をさせずに効率をあげる方法を模索していく必要があります。新しいテクノロジーや手法を積極的に学び、活用できそうなものがあればとにかく試し、良い結果が出れば取り入れます。さらに、使いやすくする方法を自分たちで編み出し、必要に応じて自分たちが使う製品やサービスを提供する企業に料金を払ってカスタマイズを依頼します。多くの企業はこのようにして機械翻訳を導入していることでしょう。

弊社の翻訳者は現在、技術文書のポストエディットを最低500~750words/hで行っていますが、これは社員に無理をさせて実現したものではありません。必要な品質そしてスピードを社員一人一人が理解し、より良いサービスを目指して時間をかけて試行錯誤した結果なのです。それに加え、社員はそれぞれ、品質をはじめとしたスキルアップにも積極的に取り組んでおり、会社も様々な補助を提供しています。

また、弊部の扱っているコンテンツは、人が対応可能なものよりも速い公開スピードが求められるため、生の機械翻訳も併用しておりますが、ポストエディットとともにユーザーには好評です。

もちろん、必要に応じて人手翻訳も行いますし、弊部以外が行った作業の品質チェックも行いますが、どれも常にユーザーが満足する結果となっており、これを可能にしている翻訳者は代え難い財産となっています。

また、弊部のような自社製品・サービスのみを扱う翻訳部門とはやりかたは異なりますが、翻訳会社でも同様の取り組みを行っている話をいくつも耳にします。このような企業努力はあまり知られていないかもしれませんが、企業は普段から多くの投資をしています。企業は、いま目の前にある業務だけを考えるのではなく、将来のことも考えて投資していくのです。

機械翻訳などのテクノロジーは日々改善され続けています。現在の品質に問題があったとして、企業が求める要件を満たす、また満たさない場合でもカバーできる方法が存在するテクノロジーを使わないという選択肢は、限られた条件を除き、分野を問わず徐々になくなっていくといっていいでしょう。

●求められる翻訳者像

求められる翻訳者としての能力は、これまでと大きく変わっているようには思いません。クライアント企業が求めるものを適切に理解し、求められる品質とスピードを出す、そして翻訳者としての職業倫理をきちんと備えていることが重要になります。顧客が求めるものを適切に理解するには、顧客と直接話をするだけでなく、業界や世の中の動向も学んでいく必要があります。

機械翻訳の普及により、予算や納期の都合でできなかったものが翻訳できるようになりました。それにより企業に「提供するコンテンツにはすべて日本語を用意してほしい」と求める声は日々増えています。これを無視することはできません。

これを実現するには、たとえば、ユーザーにとって十分な品質、つまり必要な情報が十分に記述されている状態とはどういうことか、翻訳者も、翻訳者としてではなく、第三者(企業を含む)として見る眼を養うことが重要になります。普段顧客と話をする機会が少ない翻訳者にとって、これは簡単なことではありません。顧客の立場になって考えられる翻訳者の需要は高まっているように感じます。

次に、求められる品質とスピードを理解し、それを満たすものを提供することが求められます。品質が求められるのは言うまでもありませんが、ポストエディットに限らず、この2点についてきちんと合意がとれていないと感じる発言を見かけることがあります。

上で述べたように、企業やエンドユーザーが求める品質と翻訳者が考える品質が一致していないことも少なくありません。翻訳者が考える品質が、ユーザーの求めるものを超えるとも限りません。サービスを提供する者としては、そのようなギャップが存在すること、またそのギャップを埋める努力が必要であることを認識する必要があります。

たとえば、機械翻訳の品質が悪く、作業時間が想定よりも長くなっていると翻訳者が思うような状況が発生したとして、実際には指示されている作業以外、またはそれ以上のことを翻訳者がしているのであれば、それは予測時間に問題があるのではなく、頼まれていない余計な作業を翻訳者がしているということになり、もしかしたらその作業が双方にとってマイナスの結果につながるかもしれません。つまり自身の判断で作業内容を決めず、前もってSLA(Service Level Agreement)についてきちんと確認することが必要です。

最後に、翻訳者としての倫理観について今一度考えてみましょう。特に、機密保持や個人情報の管理が厳しく叫ばれる世の中、SNSの使い方には一層の注意が必要です(※1)。

(潜在)顧客や受注した仕事のこと、また同業者や関連企業について日々感じたことを自由に発言したりはしていませんか? 翻訳者として発言した内容は、翻訳者全体の品位を保てる内容になっていますか? 誰もが自分の仕事にプライドを持っています。しかし、品質の良し悪しを決めるのは翻訳者ではなく、お客様です。

SNSは誰が見ているかわかりません。お客様も含め、自分以外の誰かの能力を疑問視するような発言、そして機密保持に触れるような発言は控えることが求められます。

※1 JTFをはじめとした業界団体、翻訳者と直接話ができる翻訳会社、翻訳学校には、周知徹底をお願いします。

●ポストエディットの課題

ポストエディットの導入により、フリー翻訳者が訴える課題は主に以下の3つにまとめられるようです。

  1. 単価が安い。安いのに高品質を求められる。
  2. 機械翻訳を修正するより一から翻訳したほうが速い。
  3. 既存の訳文を修正するのは苦痛。一から翻訳したい。

1つ目については、2つの理由が考えられます。まずは、スピードをあげるのが妥当だとクライアント企業や翻訳会社が考えている場合です。弊社の場合は、社内翻訳者が最低500~750words/hで十分な品質を担保できています。社内でツールなどに投資を行い、このような実績が出せている状態で外部に発注する場合に、通常の人手翻訳(250words/h換算)と同じ価格で発注し、人手翻訳と同じ期日で納品してもらうことは難しくなっています。

つまり、機械翻訳などの設備投資により、スピードがあげられるような環境を企業や翻訳会社が揃えた場合は、スピードアップが求められていきます(※2)。この場合は、企業や翻訳会社が妥当だと考えるスピードに合わせられないと、自身の競争力を保てず、収入減につながるでしょう。

もう1つは、不当な価格引き下げです。これは問題ではありますが、この問題はポストエディットだけではなく、人手翻訳でも存在しています。しかし、人手翻訳と同様、多くの場合翻訳者は受注しないでしょう。したがって、翻訳者が考えるべきなのは前者となります。

2つ目については、少なくとも弊社の場合は正しくありません。1年前と比べてみても機械翻訳の品質は上がっており、一から翻訳する必要性は感じられません。

ファイル形式など特別な事情で機械翻訳の品質が悪くなることはあり、弊部でもその場合は人手翻訳となります。つまり、このような場合は作業を始める前に特殊なケースとして発注側に伝えるのが一番の解決策となります。これは人手翻訳やレビューを行う際にも発生する通常のコミュニケーションです。

3つ目については、そもそも企業や翻訳会社に対策を求めるものではありません。社内翻訳者ならともかく、フリー翻訳者であれば受注するものを選ぶことができますので、人手翻訳を希望されるなら、人手翻訳の依頼だけを受けることができます。

ただ、企業の立場からすると、このような依頼は年々減っていき、競争率は徐々に高くなることが予想されます。また、今後テクノロジーが進化していけば、人手翻訳だけでなくポストエディットすらなくなり、それに変わる新しい活躍の場が生まれるかもしれません。人手翻訳を発注するように企業に求めるのではなく、今後のことを考えて、今のうちから機械翻訳と共存する新しいスキルを得ていくと、将来の安心につながるかもしれません。

※2 弊部では、外部に発注するものに、品質スピードともに社内と同じレベルは求めていませんが、人手翻訳と同等にはなりません。

●Red Hatが企業としてできること

現在の課題をいくつか挙げましたが、いま翻訳者が取り組むべきなのは、クライアント企業や翻訳会社がスピードをあげるのが妥当としている状況で、十分なスピードをあげられない問題です。

スピードアップが適切に行われず、求められる作業を誤って解釈して自身の判断で作業していけば、企業や翻訳会社に安価で使われていると感じるかもしれません。不満がたまっていき、その不満が解消されなければ、企業や翻訳会社に対する不信感はますます高まります。

この問題に対し、弊社は社会貢献の一環として、以下の2つの無料セミナーを企画運営する会を発足しました。

MTPEもやもや会

MTPEを導入している、または導入を検討している中でうまれたもやもやを共有して解決策を考える会です。
対象者:MTPEを導入したい、または導入している企業、制作会社、PM、翻訳者など

MTPEもくもく会

ポストエディットを体験する会です。
対象者:MTPEを試してみたい翻訳者

機械翻訳やポストエディットの流れは止められませんが、それに対抗する術は身につけることができます。日々変わっていく状況に、不安や不満を感じて過ごしているのならば、問題点を共有して建設的な議論を行いませんか。ポストエディットの仕事をしながら翻訳スキルを上げる方法も学べるかもしれません。
翻訳やポストエディットの経験は一切問いません。どのレベルの方もお待ちしております。https://mtpe.peatix.com/で告知を行っておりますので、興味のある方はぜひご活用ください。

◎執筆者

燃脇綾子氏
レッドハット株式会社 グローバルサポートサービスローカリゼーションサービス部部長

◎企業紹介
レッドハット株式会社
ビューションであるRed Hat Enterprise Linuxを製品として販売・開発・サポートする米国IT企業。顧客のニーズに応え、2021年7月に、それまで翻訳されていなかった大量の製品ドキュメントをすべて多言語で提供するrawMT+LPEのハイブリッド戦略を導入。その後も生産性向上と効率化に積極的に取り組み、カスタマーエクスペリエンスと、品質/スピードのバランスに基づいた改善を続け、幅広いサービスを提供している。

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