3-E 国際共同治験における翻訳業務
佐藤 重夫 Sato Shigeo
大塚製薬株式会社新薬開発本部サイエンスドキュメント部部長。獣医系大学卒業後、国内製薬企業の動物用医薬品部門を経て大塚製薬に入社。新薬開発本部において、欧米やアジア向けの新薬治験許可申請・承認申請のための英文作成および治験関連文書の翻訳を通じ、長年にわたりグローバル開発を支援。臨床開発担当プロジェクトマネージャーとしても国内の治験推進および承認申請に携わり、社内初の欧米主導の国際共同治験の立ち上げにも参加。
報告者:茂貫恵助(フリーランス翻訳者)
製薬会社にとって今や標準的なオプションの一つとなっている国際共同治験。世界中の患者が医薬品をより早く利用できるように、単一の治験実施計画書の下で効率よく複数の地域で実施する臨床試験であるが、関連する翻訳ニーズを製薬会社の担当者から直接知る機会とあって、医薬系の翻訳者や翻訳会社を中心に多くの参加者が本セッションに集まった。
国際共同治験と翻訳
国際共同治験といっても、世界各国で実施される欧米主体のグローバル試験と、民族的類似性を活かした主に東アジアで実施する日本を主体としたアジア試験がある。
日米欧同時申請を目的としたグローバル試験では、日本の医薬品医療機器総合機構(PMDA)、米国食品医薬品局(FDA)、欧州医薬品庁(EMA)の薬事規制を遵守する必要があり、治験届文書の構成をみると治験実施計画書および治験薬概要書を英語で作成する点が共通している。一例としてFDAの言語に関する要求事項が紹介され、21 CFR 10.20によると「一部の資料を外国語で提出する場合、訳文が完全で正確であることを確認済みの英語翻訳を翻訳者の氏名、住所および資格を示すものとともに提出」、すなわち翻訳証明の提出が必要である。
このような届出・審査のためだけでなく、海外法人とはタイムリーに有効性・安全性・品質に関する情報を共有し意思疎通を図る必要があるので、種々の業務でも翻訳が発生する。時期としては治験準備期間、治験実施から終了までの期間、申請後から承認までの期間に大別できるが、特に試験立ち上げ時期に迅速な対応が求められる。ここで一例として日本法人の例が挙げられた。企業内の臨床担当者は他の業務と並行しながら内製、つまり社内対応もしくは、外部委託により短期間で訳文を作成し、翻訳後の社内専門部署によるレビューも含めて迅速に対応できないと、治験開始や申請時期が遅れるといった事態になりかねない。
また、医薬品開発受託機関(CRO)や治験実施施設の医療関係者の理解補助に翻訳は必要だ。製薬企業やCROでは和訳版を参考資料と位置付けているものの、実際には治験実施施設や治験審査委員会(IRB)、PMDAでは認識が異なり、和訳版を主要な審査対象資料や治験文書として捉え、原本のように扱われているという現状も紹介された。
一方のアジア試験では、東アジア規制当局の要求言語として各国の言語が基本であり、英語を必須としているものはない。ただし日本語を原本とする場合、英語版も作成し情報を共有するなど、共通の言語は英語が使用されている。国内CROまたは日本法人が英語で原本を作成した後、治験実施計画書や同意説明文書は現地語(中国語や韓国語等)に翻訳される。各国の規制当局からの照会事項は現地で英訳して日本へ送付され、日本からの回答も英文で作成されるという流れである。
国際共同治験の翻訳対象文書
続けて、国際共同治験において翻訳対象となる主な文書が分かりやすく図式化されたものと共に紹介された。
まず治験実施計画書である。グローバル試験では米国が主体となり英語で作成されたものに対し、日本など一部の国で翻訳版を作成する。原本の作成時はもちろん、治験期間中の改訂時にも海外法人での協議結果をすぐに反映するなど時間差なく翻訳することが求められる。また、例外的に日本独自の追補を作成する場合は英訳も発生する。
次に治験参加のための同意説明文書である。英語のグローバル版を各国版に翻訳し、さらに各施設版へと作成していく。被験者の理解のために翻訳は必須となる。日本語版は、チェックなど必要に応じて英訳されることもある。
治験薬概要書の原本はグローバル開発化合物の場合英語であるので、日本など一部の国で翻訳版が必要となる。品質・安全性・有効性情報はグローバルでタイムリーに共有するため定期(最低年1回)・逐次改訂が実施され、これに合わせて翻訳業務も発生するが、国内法人では翻訳によるタイムラグを最小限にするよう求められている。
最後に照会事項である。照会事項とは対面助言時、治験届時、および承認審査時にPMDAなどの規制当局から発出されるもので、海外法人(提携先)との情報共有や合意形成のために照会事項とその関連書類も翻訳が必要となる。回答期限遵守のため数日や早いものでは数時間という迅速な対応が求められている。さらに、機構見解、相談者見解、対面助言へと規制当局とのやりとりは続いていく。
翻訳に求められる質と保証
国内外の製薬企業やCROから外部委託を受けた国内外の翻訳会社を経由して個人翻訳者に依頼された翻訳には何が求められるのか。残念なことに治験審査委員会による誤訳に関する指摘事項がインターネット上でも散見される。重大な誤訳は、治験のオペレーションにも影響するため、まずは原文の誤記・不明瞭、翻訳の問題、品質管理不足、レビュー不足、修正ミスなど発生の原因となるものが列挙され、依頼者側と翻訳する側の双方からの対策を考察した。製薬企業やCROでは標準操作手順(SOP)を定め、質の一部であるとの認識からスタイルガイドを持ち、品質のチェックリストを作成するなどして品質の確保に努めている。翻訳者には、社内のメディカルライターが原文で書いたようなレベルに仕上げることは要求しておらず、想像できる範囲でギリギリまで意訳したレベルまたは直訳調だが間違いではないレベルを求めている。医薬翻訳経験の少ない訳者の翻訳には翻訳会社でのブラッシュアップを希望している。
個人翻訳者に期待することのまとめとして、今後機械翻訳に負けないためにも、場面の想像力を上げること、文脈・全体を意識すること、課題のある原文への柔軟な対処が紹介された。また、科学的に妥当・正確な翻訳、資料・情報の活用と日々の研鑽、効果的な翻訳・チェックも基本的な要望として挙がった。
最後に、さらなる効率化・品質向上の具体例として、参考になる日本語はPMDAの「審査報告書/再審査報告書等」、参考になる英語はFDAのDrug Approval Packageのサイトが紹介された。また、翻訳支援システムや機械翻訳等の翻訳の効率化や、Common Protocol TemplateやProtocol Representation Model、eConsentといった英語原本の構造化・電子化という新しい技術についての説明もあった。限られた時間の中で国際共同治験の概要から個人翻訳者の注意すべき点まで、明瞭にまとめられた登壇者の発表に対する温かい拍手に包まれ、本セッションは終了した。
質疑応答(一部抜粋)
Q1. 社内翻訳にも翻訳証明書は必要なのか?
A1. 登壇者の企業では科学文書室に社内翻訳者がいて、その翻訳に責任者が署名する形をとっている。
Q2. 翻訳証明書のタイミングは?企業の担当者がリライトするプロセスの前後で発生するものなのか?
A2. 外部委託した翻訳の場合、製薬会社でレビューし、翻訳会社でレビュー結果を確認・修正の後、翻訳証明をもらっている。
Q3. 翻訳会社に期待することは?
A3. 刻々と変化する諸規制について我々も日々対応しているが、規制改革の全体的な流れについては翻訳会社にもキャッチしてもらえるとありがたい。
Q4. 原文が分かりにくい場合、翻訳しやすい文書に製薬会社がリライトしてから外部委託することはあるのか?
A4. 迅速な対応が必要なもの、説明に時間がかかるもの、事情が分かる者が対応した方が効率的なもの、具体的には照会事項などは社内翻訳で対応している。
Q5. 外部委託する翻訳量は増えているのか、減っているのか?
A5. 大量に発生する文書の多くは内部で処理しきれず、外部委託している。翻訳を要する文書量としてはここ数年横ばいか。
Q6. 機械翻訳へシフトする動きはあるのか?
A6. スパンにもよる。短期でというのは考えにくく、ここ数年は機械翻訳を評価し続ける。10年以内には何らかの導入があるかもしれない。