この3人だから話せる! 第2弾
激変する翻訳環境に振り回されないために知っておくべきこと
【前編】翻訳者の報酬&スキルアップ術
通翻訳者の相談相手「カセツウ」主宰 酒井秀介さん
フリーランス日英翻訳者 松本佳月さん
英日・日英翻訳者 齊藤貴昭(テリー齊藤)さん
本特集では、日本翻訳連盟主催の翻訳祭やセミナーから選りすぐった講演の抄録をお届けします。今回は、「JTF翻訳祭2022」より、酒井秀介さん、松本佳月さん、齊藤貴昭さんによる表題の講演の前編です。翻訳者を取り巻く環境が激しく変化している現代において、翻訳者はどう翻訳に向き合っていくべきか、3人の経歴を踏まえて、フリーランス翻訳者の報酬、レートを上げるには、翻訳スキルを向上させる方法などについて、本音で語っていただきました。
●社内翻訳者、フリーランス、コーディネータの経験から
酒井:「この3人だから話せる!」と題した講演は、2021年に続いて2回目になります。今回は「激変する翻訳環境に振り回されないために知っておくべきこと」というテーマで、3人でお話していきます。
まず、各自簡単に経歴紹介をしたいと思います。松本佳月さんは、フリーランス日英翻訳者です。インハウス翻訳者(社内翻訳者)として大手メーカーで13年勤務した後、フリーランスになり、現在まで25年間、日英翻訳を手がけていらっしゃいます。また著書を2冊出されているので読まれた方もいらっしゃると思います。
松本:日英翻訳者の松本佳月と申します。ご紹介いただいたとおり、約25年間、英訳一筋で頑張っています。今年(2022年)からIR関係の翻訳会社の専属翻訳者として仕事をしています。よろしくお願いします。
酒井:私も簡単に自己紹介いたします。酒井秀介といいます。2015年から通訳者・翻訳者のコミュニティ「カセツウ」を主宰しています。もともと翻訳エージェントに11年勤めてコーディネータをやっていました。その時の経験や、現在手がけているコーチングやコンサルティング、マーケティング等についてお伝えする立場で活動しています。今は毎週日曜日に、たとえば実績表の作り方や交渉のポイントなどをテーマに、勉強会を開いています。ではテリーさんお願いします。
齊藤:齊藤貴昭と申します。SNS上ではテリー齊藤という名前で出ております。通算17~18年、翻訳関係の業務に携わっていました。このおふたりと対照的なのは、私は翻訳コーディネータという経歴を持ち、なおかつ社内翻訳者の経験があります。今は副業としてフリーランス翻訳者としても稼働しているので、その3つの異なるステータス、経験をもって今日のお話ができるかと思います。よろしくお願いします。
●自ら動かないとレートは上がらない
酒井:最初のトピックとして、翻訳者の報酬、お金の話を取り上げていきます。どのように報酬を上げる努力をしてきたか、そのあたりの工夫など、翻訳者経験が一番長い松本さんからお話してもらえますか。そもそもインハウス翻訳者からスタートして、フリーランスになって、報酬をどういうふうに上げてきたのでしょうか。
松本:社内翻訳者の時は、毎月決まったお給料がもらえるわけですね。だから自ら積極的にレートを上げるとか賃上げ交渉をすることはありませんでした。
その後フリーランスになったのですが、すんなりフリーランスになれたわけではなくて、なかなかトライアルに受からず苦労しました。やっとトライアルに受かって、ある翻訳会社に登録できたんですけど、最初は自分のレートをいくらにしていいかわからなかったので、言い値でやっていました。今思えばそんなにめちゃくちゃ安いわけではなかったと思いますが、それが高いのか安いのかわからない状態でやっていました。だんだん翻訳祭などに参加したりSNSでの交流を通じて他の翻訳者さんたちと知り合うことによって、どうも自分のレートが低いなということに気がつき始めました。
それからですかね。どうやって上げればいいんだろうと自分でいろいろ調べたり、いろいろな人に話を聞いたりして、とりあえず登録している翻訳会社にレート交渉をしてみようと思ったんです。それで、「レートを上げてください」と話をしたら「いいですよ」とすんなり上げてくれたのですが、それまで順調にもらっていた仕事がパタッと来なくなりました。あれ、と思ってちょっと我慢していたんですけど、さすがに1カ月くらい仕事が来なくて、コーディネータさんに、「仕事が来なくなったのはレートを上げたからですか」と聞いたら「そうです」と。それで、腹を割って「だいたいいくらくらいだったら戻りますかね」みたいな話をしました。結局、元に戻すのは嫌だったので、元のレートより0.5円上げた状態に戻してもらったんです。そうしたら仕事が戻ってきました。0.5円上げた状態でその仕事は続けていたんですが、それ以上はもう上がらないという実感があったので、そこからはどんどん新規開拓し始めました。
実体験から、自ら動かないとレートを上げることはできないなと身に沁みてわかったので、専属になった現在まではずっと新規開拓を続けていて、たぶん30社くらい登録してきたと思います。そのうちコンスタントにやりとりしていたのは4社。その中には高いレートの会社もありましたし、ちょっと低いけどたくさん仕事を振ってくれた会社もありました。そのあたりは自分の戦略として、A社はこのレート、B社はこのレートと、理由があったからそのレートでやっていたので、ちょっと安いなということに関しての不満はいっさいなかったです。
酒井:レートの話について、いろいろな翻訳者さんの話を聞いていつも思うのは、みんな最初は欲しい年収から考えるのか、どうなのかなということがあります。
松本:私は全く考えていませんでした。最初は自分の翻訳のスキルについて自信がないわけです。私はなかなかトライアルに受からなかった時期がありましたし、受かって登録しても自信がないので、最初は「仕事させていただけるだけでありがたいです」くらいの感じでした。今でこそレートがいくらだったら1時間何文字で、1カ月いくら欲しいと考えますけど、当初は全く考えていませんでした。
酒井:欲しい年収がいくらあって、そのためには何時間稼働してとか、生産量がこれくらいだから単価をいくらにしないといけないとか、算数で出すこともできるじゃないですか。人によってはけっこう稼がないと家計が支えられないという人もいれば、そうじゃない人もいる。そういう意味で、稼ぐ理由や目指す年収は本当に人それぞれだと思うんです。
●レート交渉のタイミング
酒井:テリーさんは、今はどういう状態ですか。完全にフリーランスではないんですか。
齊藤:翻訳は副業なので、ベーシックインカムはちゃんと押さえた上で、補助的な収入を得るための手段としてやっています。収入を得たいから翻訳をやっているのではなくて、私は翻訳をやりたいから副業をやっているので、ある意味、お金を優先しているわけじゃなく、仕事を優先しています。私の場合、翻訳会社側から提示された単価で仕事をしていて、それを上げるようなステージにまだないと思っているので、単価交渉をまだやっていません。
ただ、コーディネータ側の視点で見ると、実力があってその翻訳会社に必要とされているのであれば、交渉してもいいと思います。
酒井:そのへんをわかってやっている、もしくはやらないという選択ができていれば、それでいいなという感じですね。私も翻訳コーディネータを5年半、通訳コーディネータを6年ほどやりましたが、当時レート交渉をしてくる人はそんなにいなかった記憶ですね。
齊藤:いないですよね。
松本:最初のころは、レート交渉をしていいのかという発想にはならないんです。
酒井:それが交渉してもいいと変わってくるのは、どういう感じで変わるんですかね。翻訳者としては、何かがあって、じゃあ交渉していいのかなと思うようになるんでしょうか。
松本:私は、トライアルを受ける前に、はっきり「いくらですか」とは聞きませんけど、「御社のレートの幅はどのくらいですか」と聞くようになったのは、3~4年よりもっと前だったか、翻訳会社と翻訳者のイベントに参加したことがきっかけです。そこで翻訳会社の方々とお話する機会があって、率直に聞いてみたんです。「トライアルを受ける前にレートを聞くのは失礼ですか?」と。
個人的に一人一人と話したんですけど、そこにいた全員に「聞いてもらって全然かまいませんよ。せっかくトライアル受けて合格しても、決裂してしまうとお互いに時間の無駄なので」と言っていただいたので、それ以来ずっとそうしています。
●交渉相手との関係性も大事
酒井:最初にレート交渉したのは、先ほど話に出た、ちょっとレートを上げて仕事が来なくなって調整した時ですよね。その最初が一番緊張しましたか。
松本:めちゃくちゃ緊張しました。上げたら仕事が来なくなって、私なにやってるんだろうって。その時はすごく落ち込んだ覚えがあります。メインの取引先だったので。
酒井:なるほど。でもメインのところだったら関係性もあるから、その後の調整や率直な話もしやすいんじゃないですか。
松本:そうですね。関係性もある程度できていたので、仕事が来ないんですけど、ということは素直に相談できました。
酒井:逆に、僕はコーディネータの立場としては、レート交渉をされて、たとえば「いくらにしてください」と言われた時に、「そうならしょうがないよね」みたいな感じになるんです。そこで、「そのレートにすると、実際うちのレートはこうなので、仕事が出せなくなっちゃいますよ」と言うかどうかは、相手次第ですね。
齊藤:翻訳会社によって考え方が違うので、それに従って反応も変わるはずですよ。佳月さんのケースのように、レート交渉に応じて単価を上げてくれるけど、その後の仕事がなくなるよという情報を出してくれないところもあれば、「うちのレンジにまったく入らないので上げられません」と断るところもあるだろうし、さまざまだと思います。そのへんは相手との関係性をよく見て交渉しないと危険ですよね。
酒井:テリーさんのところでは、交渉してきた翻訳者さんはけっこういましたか?
齊藤:ほとんどいないです。記憶にあるのは一人だけです。みなさん交渉してこないんですよ。していいと思うんですけどね。逆に、なぜしないのかと思うくらいなんですけど。でも実体験上はほとんどないです。
酒井:僕もあまりなかったな。こういう表現もちょっと微妙ですけど、交渉してきたのは日本の方ではありませんでした。かなりゴリゴリの交渉だったので、「はい、わかりました」っていう話ではなかったです。
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