海外翻訳事情:香港 ”Translation shapes Hong Kong”
香港における翻訳・通訳事情について、Hong Kong Baptist University のProfessor 兼 Directorであり、またHong Kong Translation Society(香港翻訳学会)のPresidentも務めるJanice教授を訪問し、インタビューを行いました。
Interviewer: JTF理事、株式会社川村インターナショナル取締役 前田耕二
ーーまずHong Kong Translation Society(香港翻訳学会)について教えてください。主にはどういった活動を行っているのでしょうか?
Janice教授 Hong Kong Translation Society(香港翻訳学会)は1971年に設立された非営利団体で、長年にわたり、翻訳・通訳、異文化間コミュニケーションに関する様々な活動を推進してきました。
現在は、翻訳コンテスト、シンポジウムの開催、学術誌の出版など、言語教育の発展、若手翻訳者の育成を目的とした活動を主に行っていますが、創立当初は、政治的・経済的背景が現在とは大きく異なり、今よりも実務的な役割を担っていました。
というのもHong Kong Translation Societyが設立された理由には、香港の歴史と成り立ちが深く関係しているからです。ご存知の通り1997年以前の香港では、英語が唯一の公用語でした。使用言語が英語のみだったということではなく、広東語は存在していたが、法務上の公用語ではなかったということです。当時の香港は英国の統治下にあったため、政府や裁判所に提出する書類や、政治・経済面での正式書類は、全て英語である必要があったのです。
しかしながら、一般の香港人の中には英語の読み書きが得意でない人々も多く、公用語とは言え、自身の文化的バックグラウンドと異なる言語で正確に情報を伝達することは容易なことではありません。当然のことながら、英語から広東語、広東語から英語への翻訳・通訳を行う必要がありました。
そこで、英語・広東語両方のバックグラウンドと知見を持った人々が団結し、言語問題を扱う文化サロンとして創立されたのが、このHong Kong Translation Societyというわけです。創立時のメンバーには、武術小説で有名なLouis CHA Leung Yungなどが参加していました。
創立から50年、香港を取り巻く環境は大きく変わりました。
1997年に、英国から中国に返還されたことにより、英語に加えて中文(広東語、普通話)が正式に公用語となり、多くの大学での中文翻訳のプログラムが導入されるようになりました。
現在では、多くの学術会員に加え、翻訳者・通訳者の実務作業者が、当学会に参加しており、翻訳・通訳の普及、業界の発展に向けた様々な活動を行っています。
ーーHong Kong Translation Societyが主催するイベントにはどのようなものがあるのでしょうか?
Janice教授 企業向けのフォーラムやプロとして活躍する翻訳者・通訳者向けのカンファレンス、学生向けのセミナーなど様々なイベントがあります。企業や大学と連携してイベントを企画・開催することで、産業界・経済界と学術界とのつながりを構築し、翻訳・通訳、言語サービス業界の活性化に努めています。
例えば、2025年の5月には APTIF11(Asia-Pacific Translation and Interpreting Forum)のカンファレンスを開催する予定です。
APTIF11、通訳者連盟(FIT)傘下のアジア太平洋地域翻訳者・通訳者フォーラムで、翻訳・通訳分野の研究者や実務作業者、教員・トレーナーを招いて、研究結果や各方面でのベストプラクティスを発表・議論します。3年に一度の開催で、今年のテーマは「Culture, Connectivity and Technology: Translating Communities, Transforming Perspectives」です。
また、翻訳を学ぶ学生向けのイベントとして「翻訳コンテスト」も開催しています。
毎年、地元の学校、大学、業界関係者から何百人もの参加者が集まる大きなイベントで、優秀な学生に対しては、毎年奨学金が授与されます。
現在行われている多くの大学プログラムの運営や企画を通じて、次世代の翻訳者を育成・促進するのも私たちHong Kong Translation Societyの使命の一つだと考えています。
非常にささやかなことですが、このような表彰を通じて、学生たちが業界に貢献し続けてくれることを願っています。
ーー香港は世界でも有数の国際都市であり、言語的な多様性も非常に高い地域です。様々な人種の人々が暮らし、様々な言語が飛び交うこの香港において、翻訳・通訳といった言語サービスはどのような意味を持つとお考えでしょうか?
Janice教授 「Translation shapes Hong Kong(=香港は翻訳で形成されている)」と私は考えています。
先ほどもお話した通り、英国統治時代の香港では英語が唯一の公用語であったことから、法務、政治・経済などの分野で大量の文書の翻訳が必要でした。
1997年に中国に返還されてからは、英語に加えて、中文(広東語・普通話)が公用語に加わりましたが、それでも翻訳の重要性が低下することはなく、これまで英語のみで作成されていた文書や広東語のみで流通していたものなど、様々な「コンテンツ」を相互に行き来させる機会が増え、むしろ翻訳の必要性は高まったと言えます。
そして中国本土の経済発展が進むにつれて、中国とのビジネス機会や旅行客の往来も増えました。これにより、普通話によるコミュニケーションが増加し、英語・広東語・普通話の三言語間での翻訳・通訳の必要性が高まりました。
前田さんもご存じの通り、広東語と普通話、そして簡体字と繁体字は同じ中国語でも、大きく異なります。一般的に中国本土では普通話が話され、書き言葉には簡体字を使用します。
香港では、話し言葉に広東語、書き言葉には繁体字をそれぞれ使用するので、話し言葉も書き言葉も違うということになります。
英語、広東語(繁体字)、普通話(簡体字)、これら三つの言葉を日常的に使い分けながら、言い換えると「無意識的に翻訳・通訳しながら」日常生活を送っているのです。
また、香港はそのユニークな歴史、そして地理的な利便性もあり、「東洋文化と西洋文化の交流点」、「アジアのハブ」として、様々な国際文化交流や活動が行われてきました。
これにより、英語、広東語(繁体字)、普通話(簡体字)以外の言葉、それこそ日本語やフランス語、タガログ語やインドネシア語などの翻訳・通訳も盛んにおこなわれ、常に重要な役割を果たしてきたのです。
地政学的に見ても、香港を取り巻く環境はここ数年で大きく変わりましたが、香港は異文化交流と共に発展してきました。その異文化交流を支えてきたのが「ことばの交流」=すなわち翻訳・通訳なのです。
「Translation shapes Hong Kong(=香港は翻訳で形成されている)」であり、香港の経済的・文化的発展を支える重要なピースとして、今後も翻訳・通訳は私たちの生活の中にあり続けると思います。
ーー近年、生成AIや機械翻訳(自動翻訳)などテクノロジーの発展が著しいですが、こういった新しいテクノロジーやソリューションは、現在の翻訳・通訳産業にどのような影響を与えるとお考えですか?
Janice教授 確かに最近のテクノロジーの発展には目を見張るものがあります。2016年にNeural Machine Translation(NMT)が登場してからは、機械翻訳(自動翻訳)を活用する機会・場面を目にする機会が増えたと思います。LLM(大規模言語モデル)も非常にホットな話題で、今後の翻訳の手法・在り方に大きな影響を与えることは間違いないでしょう。
そして、こういった「テクノロジーの発展」に際して、人々の中に、ある種のアレルギーが生じるのは、決して珍しいことではなく、人類の歴史の一つとも言えます。
例えば、文芸翻訳などでは、こういったツールを避ける翻訳者も少なくはありませんし、産業翻訳に比べると、その効果も限定的なものかもしれません。あるいは、クリエイティブな訳が求められるケース、特にTranscreationなどにおいては、機械翻訳(自動翻訳)を活用することで、かえって適切な訳を作成できないこともあります。
そういう意味ではテクノロジー・ツールの活用にも一長一短があるのは事実だと思います。
しかしそれでも、私は、生成 AI や機械翻訳ツールなどテクノロジーの活用を避けるべきではないと考えています。
これは個別のツールの利便性や使い勝手ということではなく、テクノロジーのメインストリームを適切に乗りこなすということです。
紙とペンからタイプライター、タイプライターからワードプロセッサー、ワードプロセッサーからパソコン、紙媒体の辞書から電子辞書、電子辞書からオンライン辞書、オンライン辞書からカスタマイズされた用語集・翻訳メモリなど、テクノロジーの発展と共に私たちの仕事も進化してきたのです。
現代は変化のスピードがとても速い時代です。特にITやインターネット分野の技術は日進月歩で、毎日のように新しい技術やサービスが生まれています。
翻訳・通訳に携わる私たちも、こういった技術のメインストリームには常にアンテナを張っておくことが重要だと思います。
ーーなるほど。テクノロジーの進化・時代の変化に合わせて、私たちも自らを「アップデート」していくことが重要ということですね。一方で、今現在翻訳を学んでいる、あるいはこれから学ぼうとしている学生は、この「テクノロジーの進化」とどう向き合い、どのように活用していくべきなのでしょうか?
Janice教授 先ほど申し上げた通り、テクノロジーのストリームを正しく理解し、既にある技術やツールの使い方を知っておくことは非常に重要です。
そのこと自体は現在翻訳を学んでいる学生も同様で、大学の授業でも翻訳支援ツールや機械翻訳の情報を取り扱っています。
しかし、翻訳・通訳を体系的に学ぶという点においては、翻訳・通訳の基礎訓練しっかり行うことが重要だと考えています。確かに機械翻訳や生成AI、翻訳支援ツールを活用することで、作業効率は向上しますが、学生にはそれよりも自らで考え抜き、適切なアウトプットを導き出し、そしてそれを正しく伝えるための修練が必要です。
この修練を積まずに早い段階でツールに頼りすぎると、こういった思考モデル、つまりは翻訳の中核となる能力の発達を妨げてしまう可能性があります。
学生には、「何が正しく、何が誤りなのかを本質的に理解し区別するための知性=高次の知性」を身に付けてほしいのです。
紙とペンで文章を書き出す過程とその苦労にこそ自身の考え方を培う方法であることを私たちは先人から学びました。もちろん現代において、紙とペンに立ち戻れということではありませんが、翻訳・通訳を学ぶ上で、自身で考えて、アウトプットを生み出すための基礎訓練・考え方は大事にすべきだと考えています。
また、こういった訓練は何も翻訳・通訳だけに必要なものではなりません。
いかなる職業であれ、私たちは仕事における「処理能力」が求められ、そのほとんどは自らで考え抜き、アウトプットを生み出すことにより成果となりそして評価されます。
テクノロジーを知り、それを活用することは現代社会において、必要不可欠です。
しかしそれ以上に重要なのが、自らで考え、思考する力を養い、自らを「アップデート」していくことだと思います。
(2024年11月19日、Hong Kong Baptist Universityにて)