それぞれの翻訳品質 ~発注企業、翻訳会社、翻訳者の視点から~
2017年度JTF第3回翻訳セミナー報告
それぞれの翻訳品質
~発注企業、翻訳会社、翻訳者の視点から~
上田 有佳子
神戸大学で認知心理学を専攻、卒業後は国内IT企業でシステム開発に携わる。その後、フリーランス翻訳者、日本のIT企業内でのローカライズ部門勤務を経て、外資系IT企業に転職。2011年より、米国に本社を持つ、企業向けデータ管理ソリューションを提供するネットアップ株式会社に勤務。15か国のメンバーで構成されるコンテンツ マネジメント チームのマネジメントに従事。各国オフィスのローカリゼーションのニーズの管理、製品ローカライズのプロセス改善、品質管理を行う。また、2015年3月には、米カリフォルニア州に本部を置くWomen in Localizationの日本支部を立ち上げた。3人の子の母でもある。
高橋 聡
CG以前の特撮と帽子をこよなく愛する実務翻訳者。翻訳学校講師。学習塾講師と雑多翻訳の二足のわらじ生活を約10年、ローカライズ系翻訳会社の社内翻訳者生活を約8年経たのち、2007年にフリーランスに。現在はIT・テクニカル文書全般の翻訳を手がけつつ、翻訳学校や各種SNSの翻訳者コミュニティに出没。最近は、翻訳者が使う辞書環境の研究が個人的なテーマになっている。共著『翻訳のレッスン』(講談社)。
西野 竜太郎
IT分野の英語翻訳者。長野県生まれ、愛知県育ち。米国留学を経て国内の大学を卒業後、2002年からフリーランスの翻訳者とソフトウェア開発者に。2016年に合同会社グローバリゼーションデザイン研究所を設立。2017年から日本翻訳連盟(JTF)の理事も務める。著書に『現場で困らない! ITエンジニアのための英語リーディング』(2017年、翔泳社)、『ソフトウェア・グローバリゼーション入門』(2017年、達人出版会)、『アプリケーションをつくる英語』(2012年、達人出版会/インプレス)がある。
森口 功造
品質担当として株式会社川村インターナショナルに入社後、翻訳、プロジェクトマネジメントなどの制作業務全般を経験。2007年に品質工学の考え方を取り入れた独自の統計的品質管理手法の社内導入を推進。2011年からは営業グループを含めた業務全般の統括として社内の管理に携わっている。現在は、業務プロセスの標準化推進にも関わり、ISO TC 37 国内委員として、主にISO17100、ISO18587、ISO21999の策定に関わる。
2017年度JTF第3回翻訳セミナー報告
日時●2017年10月13日(金)14:00 ~ 16:40
開催場所●剛堂会館
テーマ●それぞれの翻訳品質 ~発注企業、翻訳会社、翻訳者の視点から~
登壇者●
上田 有佳子 Ueda Yukako ネットアップ株式会社 グローバリゼーション チーム リード
高橋 聡 Takahashi Akira 個人翻訳者、JTF理事
西野 竜太郎 Nishino Ryutaro 合同会社グローバリゼーションデザイン研究所 代表社員、JTF理事
森口 功造 Moriguchi Kozo 株式会社川村インターナショナル 常務取締役
報告者●目次 由美子(XTM International Ltd.)
この度の翻訳セミナーは、「標準スタイルガイド検討委員会」から改称した「翻訳品質委員会」の委員長に就任された西野竜太郎氏がモデレータも務めながら、翻訳品質に関する講演が展開された。個人翻訳者、翻訳会社、発注企業それぞれの視点から「翻訳品質」というものに対する考えや取り組み、相互に期待されることが紹介された。
第一部では、西野氏が「翻訳品質に関する業界動向」について講演された。
まず、ISO21999についての紹介があった。この「翻訳の品質保証と評価のモデルとメトリクスに関する国際規格」は本年から議論が開始された作業原案であり、ISO規格として正式発行されるまでには数年を要する。ISO17100(翻訳サービス ― 翻訳サービスの要求事項)とは異なり、認証は求められないガイダンス規格で、原案には評価モデルやエラー項目も含まれている。
そして、JTF翻訳品質評価ガイドラインについても紹介があった。前述の翻訳品質委員会が提示する評価方法の基準によりもたらされるメリットの例として、翻訳サービスを利用したことがない新規顧客に対する翻訳品質への取り組みをアピールできることなどが言及された。今後の方針として、翻訳業務の国際取引でも通用するよう海外の動向も考慮しつつ、日本語特有の課題にも取り込むとのこと。ガイドラインに含める項目の例には、翻訳文書の種類に応じた重みづけを盛り込むことが挙げられ、先行する海外のガイドラインと比較しても先進的なものを目指していることが示唆された。
さらに、西野氏は「仕様」(英語:Specification)とは翻訳成果物が備えるべき要件をまとめたものであると解説された。つまり、仕様を基準とし、これを満たしている翻訳は高品質とみなされる。ただし仕様は、発注企業や翻訳会社などの関係者間で事前に合意しておくことが重要とのこと。特定の用語集を使用する場合、翻訳作業を実施する前に合意しておくことで、その必要性が認識される。また、仕様に含める項目としては、該当文書の対象読者や目的、評価手法や翻訳の納期・単価・分量などが例として挙げられた。
第二部では、翻訳に関わるさまざまな視点から翻訳品質に関する講演があった。
1. 個人翻訳者であり、JTF理事も務めておられる高橋聡氏は、2010年から翻訳品質委員を務めている。翻訳前または翻訳中に「翻訳者がよく口にすること」として、指示書が多すぎたり少なすぎかったり、整理されていないことがあると指摘された。本セミナーの資料として配布された「翻訳スタイルガイド:カスタムテンプレートの例」というA4サイズ1枚の表には、表記規則として設ける項目(例:カタカナ複合語の区切り、UI表記に付する括弧の種類)が実に分かりやすくまとめられていた。
そのほかにも、英日個別のPDFとして提供される「参考資料」が参照しにくい、用語集と翻訳メモリに齟齬がある、翻訳物の種類・用途が明確にされない、原典ファイルが提供されないなど、本セミナーに参加した翻訳会社社員の耳が痛くなるような指摘が和やかな口調で、ときにユーモアを交えて語られた。不足情報を催促しない翻訳者の側にも問題があるという。また、翻訳後の事項としては、品質評価が知らされない、納品物の最終形が提示されないとのこと。結果的に、翻訳者と翻訳会社と発注企業の間で「品質」に関する共通認識が欠如していると指摘された。翻訳者は「読者」にとっての品質を優先する傾向があるが、翻訳会社と翻訳発注企業と同じ「読者」を認識する必要がある。
また、翻訳者にとって、訳抜けやスペルミスなど測定可能な項目もあるが、誤訳や読みやすさなど測定困難と思われる項目があることも指摘された。業界標準として利用できるツールや、品質が単価につながるという実感を翻訳者にもたらすなどの必要性も示唆された上で、「品質」についての共通認識が重要である旨が繰り返して指摘された。
2. 株式会社川村インターナショナルの森口功造氏は、ISO21999の議論に参加するべく本年6月に開催されたウィーン総会に参加したメンバーでもある。同社の行動指針には、「お客様の求める解を追求する」とある。顧客の要求と仕様はさまざまであり、「品質」の類型にも多様性があることが指摘された。顧客の期待や要求を製品やサービスのコンセプトに反映しているかという「企画品質」や、充足されていることが当然で不足によって不満が引き起こされる「当たり前品質」が例として挙げられた。さらに翻訳業界の事情として、顧客の要望が明示されないことなどによる共通認識の欠如や、関係者間のプロセス分断が提示された。
品質保証の手法である統計的品質管理やプロセス ベンチマーキング、コンペティティブ ベンチマーキングなどが紹介された上で、品質工学的アプローチについての言及があった。そこで、「品質=出荷後に社会に与える損失」という考えが紹介された。たとえばISO認証を取得し、統計的なデータ管理をし、トライアルに合格していたとしてもミススペルが見つかることもある。では、そのミススペルがもたらす社会的な損失はいかほどであるかを考慮すべきであるという考え方だ。品質工学的アプローチにおいては、「臨界不良率」という言葉がでてくる。臨界不良率を上回った場合はチェックする意義があり、下回った場合はチェックすることが社会的損失と考えられるそうだ。こういったアプローチを実現するためには顧客の協力が必然であり、プロセスの見える化や目標の共有、関係者間の対立感情を消失させて相互に発言できる機会を作ることも重要だ。品質改善を目的としたデータ収集や、分析結果をフィードバックすることで一次翻訳の品質向上を図るための情報共有なども必要となる。同社では、現状として一部の案件のみではあるも、実際にこのような取り組みを推進し、さらなる品質の向上を目指している。
3. ネットアップ株式会社で15カ国のメンバーで構成されるグローバル コンテンツ マネジメント チームを統括している上田有佳子氏は、翻訳会社内ですでにレビュー済みのテクニカル ドキュメントに対して自社内レビューは原則として実施しないという方針を力強く解説してくれた。上田氏の言葉をそのまま引用すると、翻訳会社と自社内のレビューアとで同じ情報を共有していれば「レビューの上塗りは不要!」とのこと。
上田氏の所属する部署では、社内のローカライズをマーケティング関連、製品ローカライズ、Web等ジャンルを問わずすべて行っていて、翻訳実績は年間で1600万ワード超、その約3分の1が日本語という。TMS(翻訳管理システム)ですべて制御され、カテゴリごとにどの言語も同じ翻訳会社に継続して依頼しているそうだ。上田氏が「品質のために私たちが行っていること」として列挙した項目には、翻訳担当者が萎縮することなく質問できる関係性を構築するための初期ミーティングや製品知識を共有するためのトレーニング、プロジェクトごとに行うフィードバック、月ごとの評価レポートや、四半期ごとの対面ミーティングなど、ときにテクノロジーを大いに活用し、ときに人間性を重視した項目が設けられている。関係者間でクエリー フォームが共有されるための仕組みや、用語集やスタイルガイドの更新など発注企業側で対応するべきことも考慮されている様子が伺える。上田氏は、企業と翻訳会社と翻訳者で1つのチームであると強調された。
西野氏は、関係者間における品質に対する共通認識およびコミュニケーション不足も翻訳品質が向上しない要因の1つであるとし、「外注」が基本である翻訳業界では発生しがちであることが指摘された。また、本セミナーや、『翻訳品質評価ガイドライン』を完成させることで、そのような状況を打破する契機となることを期待するとして、本セミナーは締めくくられた。