日本翻訳連盟(JTF)

作家として、翻訳家として――日本語を慈しみ、中国語と戯れる(前編)

講演者:日中二言語作家、翻訳者 李琴峰さん

本特集では、日本翻訳連盟主催の翻訳祭やセミナーから選りすぐった講演の抄録をお届けします。今回から前後編に分けて、第31回JTF翻訳祭2022の会期に先立ち「翻訳の日」を記念して行われた、芥川賞作家・李琴峰さんの基調講演を紹介します。

●作家、翻訳家としての仕事

これまでいろいろな講演をやってきましたが、作家の立場で文学についての講演が多く、翻訳についての講演は今回が初めてです。本日は翻訳がメインテーマなので、いくつか翻訳の実例が出てきます。日本の翻訳業界は9割が英語と日本語だと聞いておりますが、私は日本語と中国語の翻訳なので、当然、例も日本語と中国語の例です。もし中国語がわからなかったら雰囲気で感じてください。

作家として、私はこれまでに8冊ほど本を出しています。小説『独り舞』『五つ数えれば三日月が』『ポラリスが降り注ぐ夜』『星月夜』『彼岸花が咲く島』『生を祝う』、電子書籍限定の『観音様の環』、最近の著書では、この8月に初めてのエッセイ集『透明な膜を隔てながら』を刊行しました。

このエッセイ集は、第二言語である日本語で作品を発表しつづけてきた中で、言語と文化、死と出生、性と恋愛、台湾と日本、読むことと書くことなど、いろいろなテーマについて自分が感じていることや葛藤していること、考えていることなどを綴ったものです。

そしてもう一つ、まだ本にはなっていませんが、朝日新聞出版のPR誌『一冊の本』に「日本語からの祝福、日本語への祝福」というエッセイを連載中です。これは日本語の特徴と面白さ、美しさ、日本語学習の遍歴や挫折、そして翻訳の仕事などをテーマに、言語学の知識を交えてユーモラスな文体で書いています。今日の講演の内容の一部は、この連載エッセイから抜粋の形で紹介していきます。

翻訳歴は、ざっくり10年になります。決して職歴が長いというわけではないのですが、ちょっと特殊な点もあります。まず、私は台湾生まれで母語は中国語ですが、日本に住み、日本語で小説を書いていて、芸術選奨新人賞や芥川賞などの文学賞をいただいています。

そしてもうひとつ特殊なのは、他の作家の作品を翻訳するほか、日本語で書いた自分の作品を自分で中国語に訳していることです。おそらく日本語圏で中国語への自作自訳をやっている人はそれほどいないのではないかと思います。

私の「李琴峰の公式サイト」にも、これまでの著書や訳書一覧などが載っていますので、よかったらぜひご参照ください。https://www.likotomi.com/

●日本語学習の始まり

これは私が、2018年に初めての本『独り舞』を出した時に、記念として書いた七言絶句の漢詩です。「十年間台湾(鹿島)で苦しみながらいろいろ書いていたが、なかなか結果が出なかった。『独り舞』という小説を書くと、日本(扶桑)で作家デビューできた。漂う根無し草にとって、帰るべき故郷はいったい何処なのかと思ったが、四海八荒、つまり世界中、行きついた場所がすなわち故郷である」という意味です。

小さい時に日本語と出会い、ずっと勉強してきて日本が好きになり、今は日本に住んでいる。自分が生まれた場所ももちろん故郷ではあるけれども、こんなふうに自分が選び取った故郷というのもある、そういう心境をうたった詩です。

では、そもそもなぜ日本語を勉強し始めたのかというと、はっきりとした理由はないんです。

何故日本語を習おうと思ったか。何度そう聞かれたか、もはや数え切れない。そして聞かれる度に、眉を顰めながら悩む。何しろ、人に伝えるための、分かりやすいきっかけみたいなものは、何一つ無かったのだ。ただある日突然、そうだ、日本語を習ってみよう、と、ふと思ったのが始まりだった。就職のためでも、流行りに乗るためでもない。ニュートンの頭にぶつかった林檎のように、それは天啓に近い想念だった。(李琴峰『透明な膜を隔てながら』)

上記は私のエッセイからの抜粋ですが、本当に中学生のある日に、急に日本語を勉強してみようと思って始め、不思議なことにずっと続けています。

私が生まれたのは台湾のすごく田舎で、日本語学校もなければ、日本語教師も日本人も日本語ができる人も周りに全くいませんでした。親戚にも日本人はおろか、日本語ができる人はひとりもいません。ですから日本語は独学で勉強しました。

幸いインターネットは既にあったので、まずインターネットで検索して、日本語の五十音表を見つけました。現在のようにスマホなどはありませんでしたが、日本語の入力システムをインストールし、大好きだったポケモンの名前で片仮名を覚えました。

またアニメも好きなので、日本のアニソンの歌詞をパソコンで一字ずつ手打ちし、平仮名の下に漢字、その下にアルファベットを添えて読めるようにしたものをプリントアウトして、歌いながら、かな文字や簡単な漢字を覚えていきました。その後は、書店で単語集、文型集、文法書などを買ってきて勉強しました。

●日本語の魅力①語彙面

日本語を勉強すると、これはすごく面白い、魅力的な言語だなと思いました。どこが魅力的と感じたのか、まず語彙面からお話します。

日本語で、漢字で書き表せる言葉は、中国語的な感覚だとすごく古めかしいんですね。

たとえば日本語には「左遷」という言葉があります。これは「昇進」の反対語です。でもなぜ「左」なのかというと、古代中国においては「左」が下で、右が上という思想があったから「左遷」という言葉になった。「左遷」は中国語では今はほぼ古文にしか出てこない言葉ですが、日本語では普通に使われ続けているのがそもそも不思議です。

同様に、「箸」「鋏」も今の中国語ではあまり使わない漢字ですが、古文には使われています。

「走る」の「走」という漢字は、現代中国語では「歩く」という意味です。ただ、古代の中国語では「走る」という意味だったので、日本語は中国語の古い意味を保持しているなと感じました。また、現代中国語では「昼寝」とは言わないけれど、「論語」には用例があります。

曜日の「七曜」は、中国語では一、二、三、四、五、六と数字で表しますが、日本語だと月、火、水、木、金、土と陰陽五行、惑星の名前を付けているのが面白いと思いました。

「支離滅裂」のような四字熟語は中国語にも日本語にもありますが、中国語では「支離破碎」という字を使います。日本語では「滅する」とか「裂く」とか、すごく大袈裟だなと思いました。「一生懸命」「必死」などの字面もすごく仰々しいですよね。

風邪は中国語では「感冒」ですが、日本語は「風のよこしま」と書く。これもすごく大仰です。

日本語の「言語」「階段」「制限」「紹介」「探偵」は、中国語では全部語順が逆で、「語言」「段階」「限制」「介紹」「偵探」です。

このように、日本語は漢字も使うし、中国語と似たような言葉があるんですけれども、微妙にズレている感覚がすごく面白いなと思いました。

欧米の人、たとえば英語母語話者などが日本語を勉強しようとすると、漢字が難しいと思います。一方、台湾では、小学生の習得漢字は約4000字です。小学校を卒業した段階で4000字くらい習得し、中学以降は古文をやっているので、日本語を勉強するうえで漢字はハードルではなく、むしろアドバンテージです。とはいっても、すべての漢字がすぐわかるというわけではありません。

いくつか例をあげてみましょう。

「時代」「未来」「興味」「必要」「不安」「勇気」「心」「夢」「傷」。これらの漢字は中国語でもそのまま使うし、意味もだいたい同じなので理解できます。
「君」「僕」「大事」「居(る)」「見(える)」などは、今はあまり使わない漢字です。たとえば「君(きみ)」という人称代名詞は、現代中国では「你 /nǐ 」です。「君 /jūn 」はかなり古い言い方で、現代の人称代名詞には使いません。

「諦(める)」「戻(る)」「(全てを)懸(ける)」になると、中国語では完全に違う意味になってきます。「諦」という漢字は、現代中国語ではもっぱら仏教的な言葉で、「丁寧に」「丁重」という意味です。「戻」という漢字は、中国語では「怒りっぽい」「狂暴」「残虐」といった意味で、「戻る」とは全然違います。「懸」という字は中国語では「吊るす」という意味です。

「叶」「払」という字は、現代中国語にもありますが、この字形からは中国語の繁体字の形はなかなか思いつきません。「儚」という字も現代中国語にあるけれど、ほとんど使われていません。「辻」「込」「峠」などは、そもそも現代中国語には存在しない漢字、つまり日本独自の漢字、国字です。

このように、一片の日本語の文章、あるいは日本語の歌詞に目を通した時に、パッと見て意味がわかる言葉もあれば、漢字なのに意味がわからない言葉もある。しかもどこかエキゾチックで、当時の私にはとても魅力的に映りました。この言葉の意味を知りたい、漢字の意味を知りたいという思いで日本語の勉強を続けることができました。

●日本語の魅力②表記面
漢字と仮名が混ざり合う字面は、密度がふぞろいなゆえにまだら模様のように美しく感じた。例えるならば平仮名の海に漢字の宝石が鏤められているように、あるいは平仮名の梢に漢字の花びらが点々と飾り付けられているように。月光が降り注ぐと海がきらきらと輝き出し、風が吹き渡ると花びらがゆらゆらと舞い降りた。(李琴峰「日本語籍を取得した日」『透明な膜を隔てながら』所収)

上は私のエッセイからの引用ですが、日本語の勉強を始めた当時も今も感じている、日本語の表記面の魅力です。

字面については、手前味噌で申し訳ないですが、私のデビュー作『独り舞』の日本語原文、自訳の中国語訳、そして英訳を比較していただきましょう。

中国語だと真っ暗な感じで、英語だと全部アルファベットです。日本語は情報が濃いところもあれば薄いところもあるということが表記でパッと見てわかります。これは世界の言語の中でも特殊で、面白いなと感じました。

●日本語の魅力③音韻面
日本語の音節は基本的に「開音節」と言って、「子音+母音」の組み合わせである。例えば「こ」なら「k」+「o」、「と」なら「t」+「o」という具合に。他の言語は必ずしもそうではない。「子音+母音」の組み合わせが続くと、機関銃のようにダダダダダッととてもリズミカルに聞こえて、つい声を出して繰り返したくなるのだ。(李琴峰「日本語籍を取得した日」『透明な膜を隔てながら』所収)

英語は単語の最後の子音や二重子音、三重子音も普通にあるし、中国語もそうです。一方、「子音」+「母音」の組み合わせを基本とするのが日本語の特徴で、そういう組み合わせが続くと、とてもリズミカルで魅力的に聞こえると当時感じていました。

音韻面についてはもう一つ、とても勉強しやすい点があります。

仮名文字をいくつか覚えていくうちに、また新たな発見があった――どうやら同じ文字であれば、どこで現れても発音は同じらしい。これは決して当たり前のことではない。(李琴峰「日本語って難しいでしょ?」『一冊の本』2022年9月号所収)

たとえば「い」という仮名は、文のどこで現れても「い」と発音します。けれども、たとえば英語だと、「o」というアルファベットは、「note /nóut/」「dot /dάt/」のように、単語によって発音も違います。

「i」というアルファベットだと、「ice /áis /」「pig /píɡ/」「Christ / kráist/」のように全然違いますし、「h-」の発音も「sh-」「ch-」「th-」「gh-」「rh-」になると変わります。「gh」はとくに特殊で、「ghost/ɡóust/」「laugh/lǽf/」、さらに「slaughter」になると、そもそも発音しないのが不思議です。

中国語は、同じ漢字なら発音も同じだと思いがちですが、実は同じ漢字でも文脈によって発音が違う例がけっこうあります。たとえば「數(数)」という漢字は、名詞として使う場合は「shù」(声調は第四声)と読みますが、「数える」のように動詞として使うと、第三声の「shǔ」になります。さらに副詞として使うと、「shuò」という、完全に違う発音になります。解答の「解」は普通「jiě」と読みますが、名字として使う時は「xiè」という発音になります。

このように、英語と中国語の発音はたくさん勉強しないといけないけれども、日本語は五十音さえ覚えてしまえば何でも読めてしまうのがいいなと思いました。

●日本語の魅力④文法面

私は母語が中国語で、中国語の文法の勉強は少ししましたが、子どもの時には文法の授業は特にありませんでした。英語を勉強すると動詞の活用がいろいろあり、不規則な動詞活用の例もけっこうあります。たとえば過去形は「-ed」を付けると言いますが、例外の動詞も多いです。ところが日本語を勉強すると、すべて一つの表にまとめられるというのがすごく不思議でした。

未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形の五つと、五段活用、上一段活用と下一段活用、カ行変格活用とサ行変格活用の大きく分けて三つのグループ。しかも、変格活用が例外の動詞ですが、なんと二つしかない。「来る」と「する」だけです。なんと規則正しく勉強しやすいのだろうと、これもとても魅力的に感じました。

先ほども言ったように、私は就職したいから、あるいは留学したいから日本語を勉強したわけではなく、本当にただの趣味だったんです。だからこのように思っています。

もし当初は気まぐれではなく明確な目的意識を持って日本語と対峙していたのなら、恐らくここまでは来られなかっただろう。そんな気がしてならない。兎が死ねば犬は煮られ、鳥がなくなれば弓は仕舞われる。目的があれば日本語もただの道具で、目的が達成した瞬間に不要なものになってしまう。私にとって日本語は道具ではなく、目的そのものなのだ。そう、恋みたい。(李琴峰「日本語籍を取得した日」『透明な膜を隔てながら』所収)
●表音文字の便利さ

日本語には中国語にあまりない特徴もあります。外来語がとても多いことです。

ガールフレンドとベイサイドのイタリアン・レストランでディナーをともにしたのは、トワイライトがグラマラスでスペクタキュラーなマジックアワーだった。そのレストランはスマートフォンでQRコードをスキャンするとグランドメニューにアクセスできるハイ・テクノロジーのスタイルだった。(李琴峰「愛憎入り混じる外来語」『一冊の本』2022年10月号所収)

これは私が書いたエッセイの引用ですが、外来語しか使わない文章ができてしまうのが、日本語のすごいところです。これはなぜかというと、日本語は仮名文字を持っていて、仮名文字は基本的に音しか表さないからです。新しい言葉を受け入れる時に、表音文字はすごく便利です。

中国語だとすべて漢字を当てて音を表すけれども、漢字にはどうしても意味が付いてしまいます。たとえば、「巧克力」。これは「巧みに克つ力」という意味ではなく「チョコレート」のことです。「布丁」はプリン。「沙龍」はサロン。「巴士」は、三つ巴に戦っている兵士ではなく、バスのことです。

音ではなく意味で翻訳している外来語もあります。「義大利麵」はイタリアの麺だからパスタ。「千層麵」はラザニア。「熱狗」はホットドッグ、「綠卡」はグリーンカード、「白宮」はホワイトハウス、「超人」はスーパーマン、「臉書」はフェイスブックです。

「魔術方塊」の方塊はブロックの意味で、魔術のブロックとは何かというと、テトリスあるいはルービックキューブのことです。「棉花糖」は綿菓子あるいはマシュマロという意味です。

音も意味も兼ねている中国語の外来語もあります。「可口可樂」はコカコーラ、「幽浮」はUFO、「愛滋」はブラックユーモアを感じますがエイズです。

このように中国語の外来語は、一つひとつ訳語を考えなければなりません。でも日本語は音を書き写せばいいという特徴があります。

地名では、「埃及」はエジプト、「雪梨」はシドニー、「波蘭」「荷蘭」はポーランドとオランダ、「溫哥華」は暖かくて華やかなイメージですが、これはバンクーバーで、けっこう寒いところですね。「楓丹白露」の丹は赤という意味で、美しい言葉ですが、これもただの地名で、フォンテーヌブローのことです。

このように中国語では、ただの地名でもある種のイメージが付いてしまいます。私はバンクーバーに行ったことはありませんが、中国語で地名を覚えて華やかなところだなと思っていました。日本語で地名を覚えた時には「バンクーバー」というのがすごく強烈な音だなと改めて思いました。

●言語と世界観

日本語の特徴と私が感じている魅力に関連して、言語と世界観の話をしたいと思います。

「恋という言葉を覚える以前に、人間は恋をすることがあり得るだろうか、と私は時々考える。もし人間は言葉というフィルターを通して世界を見ているのなら、知らない言葉がそのまま世界に対する眼差しの死角になるのではないだろうか」
「恋という言葉を知る前に人間は本当の意味で恋をすることができないはずだ。同じように、男、女、同性愛といった言葉を知る前に、人間は本当の意味で男、女、同性愛になることができないのではないだろうか」(李琴峰「セイナイト」『五つ数えれば三日月が』所収)

これは小説の一部ですが、言葉はある意味、世界の切り取り方を示していると私は思います。同時に、言葉は人間にアイデンティティを与える役割も担っています。だからある特定の側面から世界を切り取る言葉が存在していなかったら、そもそもその言語を使っている人は、そういうふうに世界を認識することが難しい。あるいはできない。また、自分に対する認識、アイデンティティを持ちえないんですね。

一例をあげると、中国語で「白蘿蔔」はだいこん、「紅蘿蔔」はにんじんのことです。だいこんとにんじんは違うものですが、中国語では白と紅で表されていて、同じ品種の色違いみたいなものだと私はずっと認識していました。日本語を勉強して、なるほど違うものなんだと改めて納得しました。

逆に、「維他命」「維生素」は違うものかと思っていたら、どちらもビタミンです。同じものでも訳語が違ったので二つの言葉ができてしまったのです。「安非他命」は同じようなものなのかと思えば、これはアンフェタミンで、全く違うものです。

「笑い」の切り取り方も言語によってかなり違います。たとえば日本語には、「作り笑い」「盗み笑い」「思い出し笑い」「含み笑い」「苦笑い」「嘲笑う」「鼻で笑う」「破顔する」「冷笑する」「相好を崩す」「微笑む」などがあります。自分の頭の中で何か思い出して、プッと笑ってしまう状況を日本語では「思い出し笑い」という言葉ひと言で表現できますが、この言葉は中国語には存在しません。

もちろん中国語にも「乾笑」「優笑」「偷笑」「巧笑」「嘲笑」「陰笑」「淺笑」「獰笑」陪笑」「協笑」「嫁笑」などいろいろな表現があります。「笑い」ひとつをとっても、その切り取り方は言語によって違うことがこの例からよくわかります。

おおむね人間の言語は、まず少数者、マイノリティの人たちにレッテルを貼る、スティグマを付与するところで言葉ができあがります。そしてその後に、マイノリティ側からマジョリティ側を指して呼ぶ言葉も必要になり、対となる言葉を作り出します。

たとえば、健常者が普通だと思われている世の中に、まず「障害者」という言葉ができてしまう。そして次に、障害者ではない人たちをどう呼べばよいかということで「健常者」という言葉ができあがる。同じように、「同性愛者」に対して「異性愛者」、「聾者」に対して「聴者」、「トランスジェンダー」に対して「シスジェンダー」という言葉ができあがる。言葉は時には人間のアイデンティティに名前を与える、あるいはアイデンティティそのものを与えるという役割を持っていると思っています。

だから、言葉を勉強すればするほど世界を認識する手段が増えていきます。一つの言語を獲得することは、世界を眺める窓、フィルターが一つ増えることにつながり、自分の世界がより豊かになってくると思います。(後編に続く)

(2022年9月30日 第31回JTF翻訳祭2022「翻訳の日」基調講演より抄録編集)

◎講演者プロフィール

李 琴峰(リ コトミ/Li Qinfeng)

日中二言語作家、翻訳者
1989年台湾生まれ。2013年来日。17年、初めて第二言語である日本語で書いた小説『独り舞』にて第60回群像新人文学賞優秀作を受賞。以来、二言語作家・翻訳家として活動。19年、小説『五つ数えれば三日月が』(文藝春秋)で、第161回芥川龍之介賞、第41回野間文芸新人賞候補に。21年、小説『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房)で、第71回芸術選奨新人賞を受賞。同年、小説『彼岸花が咲く島』(文藝春秋)で第34回三島由紀夫賞候補、第165回芥川龍之介賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』など。訳書に東山彰良『越境』(日本語→中国語)、李屏瑤『向日性植物』(中国語→日本語)など。

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