私の一冊『The Long Goodbye』
第13回:英日・日英翻訳者 矢能千秋さん
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2022年4月、Raymond Chandler作“The Long Goodbye”の田口俊樹訳『長い別れ』が刊行された。それに伴いイベントがあちこちで開かれていて、以前から気になっていたので、購入して手元に置いておいた。そこへ原書の電子版が半額セールになっているとTwitterのタイムラインに流れてきて、ふと気づいたら買っていた。原書と訳書の読み比べができるな、と思っていたところに、村上春樹訳『ロング・グッドバイ』、清水俊二訳『長いお別れ』の電子版が半額になっていて迷わず購入してしまった。
原書に加えて既訳3冊を読み比べるだけでも面白そうだが、私も翻訳者の端くれである。最近は学生のような無邪気さで、目についた書籍を何でも訳している。このストーリーも、大先輩の方々の胸をお借りするつもりで、果敢に挑んでみよう。そう決めて訳し始めた。
“The Long Goodbye”といえば、原作は1953年刊行で、私はまだ生まれていない。自分よりも古い年代に背景をおく作品をきちんと訳せるだろうか。試しに冒頭の数ページを訳してみてから、まずは田口訳を読む。おおお、エンタメ翻訳歴40年のベテランにかかるとここはこうなるんだ。次に村上訳。田口訳とはひと味もふた味も違い、直訳調ではあるが、春樹ワールドへとどんどん引き込まれていく。翻訳者が十人いれば十通りの訳がある、という言葉が頭に浮かぶ。
最後は清水訳だが、初版が刊行されたのは1958年。今回入手したのは1976年の電子版だ。原書から5年で刊行された清水訳は、そういう意味では1950年代~70年代の雰囲気に近いのかもしれない。これがこの時代のにおい、感覚、表現なのか。
自分で訳してから、3人の訳書それぞれと比べてみていたら、いつの間にか息を詰めて文字だけを追っていた。自分のいまの翻訳の納品も忘れそうなくらい贅沢なひとときだった。
これは楽しい。翻訳者として純粋に「楽しいだけ」の時間を過ごせた。次は別のページからやってみよう。どんな技が使われているだろうか。どんな表現と出会えるだろう。どんな驚きが待っているのだろうか。それが待ち遠しくてならない。
みなさんもぜひ、ご自身で訳して、原著および刊行された3人の訳書と比べてみては?
◎執筆者プロフィール
矢能 千秋(やのう ちあき)
英日・日英翻訳者。訳書『サートフード・ダイエット あなたが持っている「痩せ遺伝子」を刺激する方法』(光文社)、『きみがまだ知らないティラノサウルス』『きみがまだしらないトリケラトプス』『きみがまだ知らないステゴサウルス』(早川書房)、共訳書『世界のミツバチ・ハナバチ百科図鑑』(河出書房新社)。
★次回は、英日翻訳者の渡辺淳子さんに「私の一冊」を紹介していただきます。