日本翻訳連盟(JTF)

「手話」という言語をめぐる社会言語学的諸課題(前編)

講演者:群馬大学教授 金澤貴之さん

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●ろうコミュニティの継承形態

手話はどのように継承されていくのかという話に移りたいと思います。

3 つの「90%ルール」(図 1)こそが、民族的マイノリティの人たちとの大きな違いということになります。

民族的マイノリティは、親から子に自分の文化や言語を継承させることができますよね。もちろん、マジョリティ言語の影響はものすごく大きいから、子になり孫になり、2 世 3 世となるにしたがって、よりマジョリティ言語の影響はものすごくて、たくさん入ってきますけど、そうは言っても、親が子どもの文化や言語をある程度選択することができる。そして、自分たちの少数民族、少数言語が持つアイデンティティを受け継いでいくことができるわけです。

ところが、手話という言語の話者は、聞こえないということをきっかけに集まってきた、いわばろう学校の中で形成されていく少数言語話者なので、聞こえないというものがどのようにして起こるのか、ということがものすごく大きな意味を持つわけです。

すなわち、ろう児の親の 9 割は聞こえる親です。そのろう児の親の 9 割の聞こえる人は、障害やろう、手話などと全く無関係な世界に生きている人がほとんどです。聞こえる人のもとで聞こえない子どもが生まれる割合は 0.1 パーセントですから、1000 人に 1 人です。

いわば青天の霹靂のように、「なんでこんな子が私のもとに…」みたいに思うところが出発点になるわけですね。そこから、「手話の世界も悪くない」とか「意外と楽しい世界だ」と思う人もいるでしょうが、出発は「そんなこと想定もしてなかった」というところから始まるわけです。そういう親が聞こえない子どもの 9 割を占めるということです。親もろうで子どももろうというデフファミリーはいますけど、1 割の少数派です。

そして、ろう者の 8 割はろう者同士で結婚します。2022 年に放映された「silent(サイレント)」というドラマの中で「ろう者の 8 割はろう者同士で結婚するんですよ」というセリフがありました。90%ルールの中でここだけ 8 割なんですけど、「ちゃんと 8 割って言っているな」と思って、感心しました。どこで見つけたんでしょう、私以外に 8 割という数字を出している人は日本ではあんまりいないような気がします。私も海外の研究をもとに 8 割という数字を出しているんですけど、ちょっと「おっ」と思いました。というわけで、90%ルールなのにここだけ 8 割です。いずれにしても、圧倒的多数がろう者同士で結婚します。

そのろう者が子どもを産んだとして、子どもの 9 割は聞こえる子どもです。ろうの親のもとにろうの子どもが生まれる割合は 1 割です。先ほど言った、聞こえる親に聞こえない子どもが生まれる割合 0.1%と比べれば 100 倍多いけれども、聞こえる子どもが生まれる割合の方がやっぱり圧倒的に多いというところです。

3 つの 90%ルールから、次の問題が生じます。

  • ほとんどの保護者は聴覚障害や手話について知識がない。
  • 保護者が通常学校を選択した場合,手話を獲得する機会を失い,手話で通じ合える仲間もいなくなる。
  • 後から手話の必要性に気づくことも難しく,気づいたとしても習得の場や機会がない

子どもに、そして孫にという手話言語の継承形態を考えた時に、常に離散して、そして聞こえない人が集合して、また生まれる子どもは離散していく、という離散・集合を繰り返していく。だから親から子に伝えて文化を伝承したり、言語を継承したりということが難しいということです。

これがろうコミュニティの最大の特徴ではないかと私は思っています。ですから、聞こえる親が手話の必要性に気づけるのかどうかということがものすごく大きなポイントです。

●独自の言語的マイノリティとしての「ろう」

次は、「独自の言語的マイノリティとしてのろう」についてお話します。

この主張、考え方は、1990 年代の後半ごろに一気に日本で広まっていきます。 現代思想』という雑誌にまるごと 1 冊「ろう文化」という特集が組まれたのも 1996 年です。

「ろう」というのは聞こえない人という意味ではなくて、「手話という少数言語を母語とする言語的マイノリティなのだ」というろう者の定義があります。これが 1995 年に「ろう文化宣言」として論文で示されて、一気に有名になっていきます。

確かに、手話は 1 つの完成された言語であり、他の音声言語と同等の運用が可能である、と今ならばいえます。そうは言っても、他の民族的マイノリティと似たところもありつつ、でもちょっと違うという話をこれからしたいと思います。

他の障害者問題と違って、手話を使うか使わないかによって大きく環境が変わってくるということ。そして、場合によっては、手話話者の中に聞こえる人が 1 人入ってくると、聞こえる人のほうがむしろハンディを負うというような、障害の相対性が如実に表れます。

そういう意味では、他の障害者問題よりも言語の問題がすごく大きいところがちょっと異質です。また、周囲の言語環境が整っているかいないかで生活のしやすさが大きく変わるという意味では、いわゆる民族的マイノリティとけっこう似た困難さが生まれる。このような特徴が示されるわけです。

ただ、ここで強調しておきたいのは、そうは言っても民族的マイノリティと同じではないということです。

まずろうの場合には先ほどお話しした「90%ルール」がありますので、継承形態が全然違います。つまり、聞こえないということを起点に言語や文化が始まっていくので、変な言い方ですけど、聴者はろう者になれないということです。

耳が聞こえる人が、たまたま手話が第一言語になったとしても、それはろう者として認定されないだろうということですね。周りがその人をろう者と間違えていれば話は違いますよ。周りはその人はろう者だと間違えていれば別に違和感はないでしょうけど、実は聞こえていたということになれば、聞こえるのにめっちゃ手話がうまい人という扱いになるわけです。つまりろう者ではないということですね。

その典型が CODA(コーダ、Children『of『Deaf『Adults)と呼ばれる、親がろうで子どもである自分は聞こえるという人です。自分は聞こえるけれど親はろうだから手話が第一言語であるという人であったとしても、それはコーダであって、ろうではない。

すなわち、ろうとは「日本手話という言語を母語とする言語的マイノリティである」という定義はある程度は正しいけれども、前提条件として、何らかの聞こえにくさがあるということがあります。完全に聞こえないということはおそらく条件にしていなくて、難聴であってもろう者的な振る舞いの中に身を置いていれば、文化的にはろう者だとみんな思うと思います。ただし、全く聴覚障害がなかったら、それは手話が非常にうまい聴者といえると思います。

継承形態が違うことで、手話の習得時期などいろいろな多様性が実際生まれてくるということにも注意が必要だと思います。結果的に、日本語との混成言語話者がものすごく多く生み出されるという点も大きな特徴だと思います。

●日本手話と音声日本語の言語接触

音声日本語との混成言語状態について、ろうコミュニティの人に怒られそうなことをあえて言うと、日本手話は日本語と非常に混じりやすい宿命的な性質があると私は考えています。非常に混じりやすいんです。

まず、音声言語である英語と日本語でも混声言語状態は生まれますが、視覚言語と音声言語では調音器官が違います。音声は口で話すもので手話は手で話すものですから、よい悪いはともかくとして、同時に発話できてしまうわけです。

これは、手話と日本語を同時に発してよいのか悪いのかという話とは別問題で、自然発生的に起こることです。たとえば「こんにちは」ってどうやるんだっけ?と辞書引いて、「こんにちは」ってこうやるんだなとか、「ありがとう」ってこうやるんだ、よし、ということで、「ありがとう」としゃべりながら手話で「ありがとう」と表現できてしまうわけです。

これが文法的に正確な手話なのかという議論はひとまず置いておいて、単語レベルだったら同時に発音できてしまうし、音声言語をしゃべりながら手話を表すこと自体ができるわけですね。

さらに、継承形態として、常に音声日本語との接触を余儀なくされます。家族の中で、たとえば兄弟は聞こえないので手話でしゃべるけれど、お父さんお母さんは聞こえるとか、あるいは子どもの中で聞こえる子と聞こえない子がいる。つまり、一家団欒の食卓の中でも音声でしゃべる人と手話でしゃべる人がいる、あるいは多くの場合は聞こえるご両親なので、自分一人が手話話者で周りが手話はできないという状況があります。音声日本語が第一言語である人の中に、手話が第一言語の人が 1 人だけいることが多いでしょうが、とにかく家庭の中でも複数の言語が混じるわけです。

また、ろう学校はみんなが手話を使うかというと、そんなこともなくて、聴力が軽い子どもは、周りが手話を使っていたり先生が手話で話しかけてきても、「何? 先生」と音声で返事してしまう。そういう子がけっこういるんです。特に今は人工内耳の技術が進歩しているので、音や音声に反応できる。その音声も他の人の名前でなく自分が呼ばれているとわかって返事をする子どもがけっこうろう学校にいるので、ろう学校の中でも音声日本語と日本手話とが混在している状況が発生しています。

そのようなことを考えても、そもそも音声日本語と日本手話は言語接触が非常に多いという状況があります。1 人の単体の人間でも音声と手話を同時に話せてしまう状況が出てくるし、集団の中でも音声日本語と日本手話の話者が混在するという状況が生まれるということです。したがって、マージナル(周辺領域)集団を多く抱える宿命があるということも大きなポイントです。

図 2 で言うと、日本の中で日本語ネイティブの人が圧倒的に多いです。そうではない人もいますが、圧倒的に日本語ネイティブの人が多いわけです。

それに対して日本手話は、ネイティブの人は確かにいますが、日本語との混成言語状態で、日本語寄りの人もいる。これはたまたまではなく、宿命的にマージナル状態(図 2 の緑色の部分)が多く生まれてくる状況があるということです。

●「日本手話」「音声日本語」と「混成言語」

よく「日本手話」と「日本語対応手話」があるという言い方をするのですが、私はこの日本手話と日本語対応手話の間に中間手話があるというような説明は、そもそも間違っていて、現状を正しく言い表していないと考えています。そのことについて少し説明をします。

図 3 を見てください。

図 3 における上図はよくいわれてきた、日本手話と日本語対応手話があり、その間に中間手話があるという従来の説明です。左の極の「日本手話」は確かにありますし、ネイティブの日本手話話者はいますが、右の極の「日本語対応手話」はというと、「ネイティブの日本語対応手話話者とは何か」と考えると、やはりそういうものはない、純粋な中間手話ではない日本語対応手話とは何かと考えると、そもそもそんな自然言語は存在しないのではないでしょうか。

学校の中で人工的に作ったもので、私「の」とか名前「は」という助詞にきちんと指文字をつけて、指文字で助詞を入れて表すようなことが部分的にあるとしても、それは、そのろう学校の先生も子どもたちも学校の授業という空間で、意図的にかなり統制された場で使わないとそうはならないので、自然言語としての日本語対応手話という話ではないわけです。

すなわち実態としてはどうかというと、当然、図 3 の下図のように右の極は「音声日本語」になるわけです。音声日本語もネイティブは山ほどいます。そして、日本手話のネイティブもいます。ネイティブは左極にも右極にもいて、その間にいろいろなバリエーションがある。

たとえば聴力が非常に活用できて、音声日本語は流暢だけれども、手話があったほうが自分はわかりやすいから手話もつけながら音声日本語を話すような人も生まれてくるし、けっこう日本手話の文法に沿っているけれども、かなり日本語的な要素も入っているという人もいるし、日本語の要素は少なくて日本手話ネイティブだという人もいます。ということは、両極に日本語と日本手話があり、その間にある混成言語もバリエーションがいろいろある。少なくとも社会言語学的な実態はそうであろうと思います。

ただ問題は、下図に丸で囲んだ「より日本語に近い手話」は、意味が掴めないとろう者にいわれる音声つき手話です。これが、ろう者からすると意味がわからないといわれる、いわゆる「日本語対応手話」ということになります。だから「日本語対応手話でもいいですよ」というつもりは私にはありません。少なくとも聞こえる人間が手話を習得しようと思ったら、ネイティブのろう者が表す日本手話をモデルに勉強しましょうと言っていますし、思っています。

英語を勉強する時に、我々は日本人だから、ルー大柴っぽい日本語英語みたいなものから勉強しようとは思わないですよね。結果的に日本語的な英語になることはあるにしても、勉強する対象や身につける対象はネイティブの英語であり、手話ならばネイティブの日本手話になると思います。(後編につづく)

(2023 年 11 月 8 日 第 32 回 JTF 翻訳祭 2023 講演<同時手話通訳、文字通訳付き>より抄録編集)

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◎講演者プロフィール

金澤貴之(かなざわ たかゆき)

東京学芸大学を卒業、同大学院修士課程を修了し、筑波大学大学院博士課程を中退。筑波大学文部技官、助手を経て、2000 年4月から群馬大学教育学部障害児教育講座に講師として着任。現在、同大学教授。2013 年3月、博士(教育学)取得。博士論文は「聾教育における手話の導入過程に関する一研究」。主著 手話の社会学―教育現場への手話導入における当事者性をめぐって』(生活書院)。

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