日本翻訳連盟(JTF)

私の一冊『新訳 テンペスト』

第63回:韓日翻訳者 廣岡 孝弥さん

「来い」と言われりゃ、たちまち飛来
「よし」と言う間も与えぬくらい
すばやくさっと、皆、到来
歪めた顔には薄笑い
私が愛しい? それとも嫌い?"

『新訳 テンペスト』を音読していた私は、妖精エアリエルの台詞を声に出した途端、プッと噴き出してしまった。文章のリズムがあまりに素晴らしく、韻の踏み方も完璧で、音読すると強制的にラップになってしまう。角川文庫の「河合祥一郎のシェイクスピア新訳シリーズ」は、原文のリズムやライミングが日本語で細かく再現されている。シェイクスピアの戯曲が舞台で演じられることを前提に書かれたように、この訳は声に出すことで真価を発揮する。

『テンペスト』は、シェイクスピアが晩年に書いた「ロマンス劇」の代表作とされる。弟たちに裏切られて復讐を誓った魔術師プロスペローが、最終的には「赦し」を選ぶ。魔法の世界を舞台に人間模様を描いた、SF・ファンタジー的なムードの作品だ。

私は、文学作品の音読を日課にしている。主な目的は吃音の克服だ。吃音のある人間の常として、国語の授業でうまく音読できなかった経験がトラウマになっている。アドリブで喋るときは「失敗しやすいパターン」を避けて言葉選びを調整できるが、書かれたものを読み上げる場合はそうはいかない。人前で何かを読み上げる場面で「失敗したらどうしよう」と考えてしまい、吃音が強く出る傾向がある。気にしなければいいのだが、そうするためには失敗しても音読を続けることに慣れ、読み上げること自体への心理的ハードルを下げる必要がある。そんなわけで、私は音読を習慣化することを決意した。それも、家にいる猫に向かって。

猫は人間の言葉を解さない。少なくとも、猫自身の損得に関わる特定の音声パターン(例:「ごはん」「おやつ」)にしか興味がなさそうだ。人間が音読中にどれだけ失敗しても、逆にどれだけうまく読めても、基本的には食料が出てこない限り意に介さない。つまり、音読の質をジャッジしない猫という存在は、吃音克服トレーニングを行う人間に最もフラットに接してくれる相手なのだ。もちろん、人間がどれだけ「私が愛しい? それとも嫌い?」と問いかけても、猫は表情ひとつ変えないのだが。

◎執筆者プロフィール
廣岡孝弥(ひろおか たかや)
韓日翻訳者
2021年、第5回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」にて『モーメント・アーケード』(ファン・モガ著)で最優秀賞を受賞。韓国SFの翻訳にファン・モガ『生まれつきの時間』、パク・ヘウル『この星を離れた種族』(ともにinch magazine刊)、日韓のSF作家が12名ずつ参加したWeb連載『日韓SF交換日記』(Kaguya Planet)などがある。2024年には評論『「パラサイト 半地下の家族」を見る七つの視線』(クオン刊)を翻訳した。

★次回は韓日翻訳者の加藤慧さんに「私の一冊」を紹介していただきます。

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