WSJ編集長が語る、これからの海外メディアの役割と日本版製作現場の裏側
2016年度JTF基調講演報告
WSJ編集長が語る、これからの海外メディアの役割と
日本版製作現場の裏側
2011年よりWSJ東京支局にて経済政策報道の編集責任者を務め、アベノミクス発表当初から日本銀行による大胆な金融緩和政策などについて報道を行ってきた。2014年には、プロを目指す高校球児を1年にわたって取材した長編記事を執筆。2014年12月より現職。WSJ入社以前は18年間ロイター通信社にて金融市場、経済政策、政治、外交など幅広い分野を担当。1993年早稲田大学政治経済学部卒業。ニューヨーク出身。
2016年度JTF基調講演報告
日時●2016年6月8日(水)16:35~17:45
開催場所●アルカディア市ヶ谷(私学会館)
テーマ●WSJ編集長が語る、これからの海外メディアの役割と日本版製作現場の裏側
登壇者●西山 誠慈 Nishiyama Jouji ウォール・ストリート・ジャーナル 日本版編集長
報告者●熊谷玲美(翻訳者)
英文記者としての23年間
これまで23年間のキャリアのほとんどを英文記者・編集記者として過ごしてきた。現職のウォール・ストリート・ジャーナル(以下「WSJ」)日本版編集長に着任するまでは、WSJのポリシーエディターとして記者約10名のチームを率い、経済政策を担当。その前は18年間、ロイター通信で記者として金融政策などを取材してきた。ずっと海外メディアで日本のニュースを海外に発信する立場だったが、WSJ編集長になって初めて海外のニュースを日本に紹介する立場になった。
この仕事を志すきっかけは、中学卒業まで過ごしたニューヨークで、日本に対する誤解や情報の少なさを実感し、日本を正確に伝えたいという思いを抱いたこと。日本に帰国した高校生時代は、国内の新聞で中東などのニュースが少なかった。そのため、通学の電車でTIMEなどを読むような高校生だった。
そのような、紙の媒体でしか海外ニュースを得られない状況も、20年ほど前にインターネットが登場して劇的に変化した。
海外の視点で日本を伝える
日本国内では現在、東日本大震災の際に日本メディアへの不信感が強まったこともあり、日本について海外でどう報じられているか、ということへの関心が高く、そうした情報への需要は増えている。その一方で、政策担当者レベルであっても英語ができない人が多いなど、英語の壁がある。そこで重要になってくるのが海外メディアの日本語サービスで、実際にそうしたサービスは枚挙にいとまがない。なかには国内に記者を抱えて、国内メディアとしての役割を持つところもあるが、WSJ日本版は海外の視点を伝えることを重視している。
英語の記事をすべて訳して掲載することはできないので、日本語版の制作作業は記事選びから始まる。その際には、他社が取り上げたニュースを自分たちが取り上げていないことより、ほかと同じニュースをトップ記事にしてしまうことのほうが問題だと考えている。日本国内のメディアでも海外ニュースを扱っているので、WSJ日本版は、ほかが伝えていないことをWSJらしい視点で伝えることを目指している。
WSJ日本版がほかのメディアには負けない点は、1)海外ニュース(アメリカ主要紙唯一の日本版としては特に米国のニュース、例えば大統領選などは譲れない)、2)経済記事(中央銀行、特にFRBの金融政策など)のカバレッジ、3)WSJ独自の視点、の3点だと考える。3点目については、たとえば、原爆関連の社説などで、日本国内では論議を呼びかねない論調のものも、アメリカの見方を伝えるという意味から翻訳して掲載する判断をしている。
WSJ日本版記事の翻訳
記事選びのタイミングも含め、オペレーションとして難しいのは、アメリカとの時差の問題だ。本社のあるアメリカの東部時間にどうしても引っ張られてしまう。全体で20~30人いる翻訳チームのうち、海外にも翻訳者/編集者を数人置いて、時差に対応している。日本では、朝よりの時間帯に多く翻訳者を配置して、読者が記事をよく読む昼休みの時間に向けて翻訳記事を仕上げるようにしている。
記事の翻訳で難しいのは、専門用語やニュース用語だ。たとえば、general electionは大統領選挙であれば本選挙だが、議会制政治の文脈では、総選挙の意味になる。また、単に忠実に訳せばよいのではなく、日本の読者が日本語で読んですんなり分かる訳文が目標だ。ただ、どこまで原文と離れてよいのかという判断は難しいところで、翻訳者とのあいだで日々調整している。
こうした翻訳はGoogle翻訳ではできない。だからこそ翻訳者がいると言える。たとえば、贈収賄についての記事で「go the extra mile」という表現があれば、「もう一息頑張る」でもいいが、「一肌脱ぐ」くらい言ったほうが良いのではないか。そうした意味では、翻訳者は単なる「英語屋」ではなく、ニュースの背景を意識し、ニュースジャッジメントをする必要がある。具体的には、日本の新聞を読み、メディアのプロが書いた言葉に慣れてほしいと言っている。
デジタル/モバイル時代に求められる「差別化」
WSJにとっての今後の主戦場は、デジタル、特にモバイル(タブレットやスマートフォン)である。デジタルメディアのビジネスモデルとしては、読者は無料で読めるが広告が表示される「広告モデル」(Yahooなど)と、有料で記事を提供する「課金モデル」がある。日本は広告モデルが主流だが、その背景には、ニュースはただで読めるものという意識がある。広告モデルには、FacebookやGoogleが広告シェアの大多数を持っているため、メディア会社が広告をコントロールできないという問題がある。またアドブロッカーなどの普及でオンライン広告の収入は減少している。
WSJが課金モデルを採用する理由としては、ジャーナリストが作ったもの(ニュース)を無料では売らないという、会社としての信念がある。TwitterなどSNSの普及で誰でも発信者になれる時代に、購読料を払って読んでもらうには、やはり差別化が重要だ。アメリカの新聞は、論調だけでなく記事の内容も違う。WSJとニューヨーク・タイムズの一面が同じ日は少ない。一方、日本の一般紙は、各紙の一面が違っている日のほうが少なく、差別化ができていない。今後はどのメディアも「ここにしかない」という差別化をしなければ生き残れないのであり、日本のメディアもそうしなければ厳しいのではないか。
WSJが目指すもの
WSJ日本版は、なんでもあるファミレスではなく、高級レストランのようなメディアでなくてはならないと考えている。そのためには、翻訳の質は良くて当たり前ということになる。
また翻訳記事以外に、長編の特集記事を載せることもある。2014年には、奈良県の高校球児父子を追った「野球の栄光求める父子の挑戦」という長編の記事を書いた。記事の各所に動画を取り入れたり、グラフィックで説明したりする、イマーシブ(immersive、没入)型コンテンツと呼ばれるタイプだ。このタイプの記事は、2年前の段階では日本ではあまり前例がなかった。この記事でも、高校野球や父子、部活というテーマを通して、海外メディアが日本をどう見ているかという視点を示している。
既存メディアがブランド力だけでは生き残れないなかで、アドバンテージとなるのは取材力だ。「野球の栄光求める父子の挑戦」もほぼ1年をかけた特別プロジェクトで、最後の数カ月は週の半分以上を奈良での取材に費やした。そうした人的リソースをかけられることが、個人にはない、既存メディアの強みだ。
同時に、WSJ日本版がいかにほかのメディアと差別化するかを考えると、基本になるのはやはりしっかりした翻訳、レベルの高い翻訳だ。