新しい翻訳英文法:訳し上げから順送りの訳へ(3)
講演者:MITIS 水野翻訳通訳研究所Director 水野 的さん
本特集では、日本翻訳連盟主催の翻訳祭やセミナーから選りすぐった講演の抄録をお届けします。今回は、水野的さんの表題の講演の最終回です。今回は、三つの関門の最後の「分裂文」の後、前2回の内容を受け、講演のまとめとして、新しい翻訳英文法、訳読法の指針についてお話しいただきます。
●分裂文-強調構文
次は分裂文です。強調構文とも言いますね。分裂文は一つの要素を取り立てて、そこに注意の焦点を置かせるための構文1であると言われます。
分裂文では、焦点は be 動詞の直後に置かれます。このため、分裂文は「旧情報から新情報への自然な情報の流れという談話の制約を、いわば意図的に破ることによって、情報伝達の効果を狙った構文」2というふうにも言われます。
It isの直後が焦点部(新情報)、itを受けるthat…やwho…などの節が前提(旧情報)です。
be動詞の後が焦点部となりますから、普通は訳し上げになります。「私が無視したかったのは、彼の冷淡さである」、あるいはちょっと工夫して、「彼の冷淡さこそ私が無視したいものだった」というふうにもできます。
ただし分裂文が必ずこういう情報構造になっているとは限りません。
●分裂文の3タイプ
分裂文には次の三つのタイプがあると言われます。
(1)焦点部(New) + 前提(Given)
(2)焦点部(Given) + 前提(New)
(3)焦点部(New) + 前提(New)
(1)は、焦点部が新情報で、前提部分が旧情報の場合です。この場合はDavidが新情報ですから、「先月新車を買ったのはデイビットだ」あるいは、日本語の「は」と「が」の区別を使って、「デイビッドが、先月新車を買った」と訳してもいいでしょう。
(2)は、焦点部と前提の情報の新旧が逆転しているケースです。焦点部が古い情報になっています。情報の流れからすると、こう訳したほうがいいわけです。
(3)は、焦点部も前提も共に新情報を表す場合です。青い部分がどちらも新情報と考えられますから、そのまま訳せばいいわけですが、プリンスという人は、後ろのthat節は、「ある情報を事実として、想定された読み手はまだ知らないけれども、ある人々には知られているものとして提示する機能を持つ」3と言っています。つまりこれは、情報を与える前提をもつ分裂文であるというわけです。that節が新しい情報を持つケースです。
こういうことがありますので、分裂文もコミュニケーションの文脈、あるいは状況と切り離せない構文です。ですから訳す場合は、分裂文をそれだけ切り離して考えるのではなく、少なくとも直前のパラグラフ程度の文脈を参照し、前後の文との結束性、繋がりを考えるなど、その機能がどうなっているのかを慎重に検討する必要があります。
●再び『自由論』
ここで、最初に取り上げた『自由論』にもう一度挑戦してみます。そして新しい翻訳英文法の、あるいは新しい訳読法の応用可能性を考えてみます。
【原文】What I contend for is, that the inconveniences which are strictly inseparable from the unfavourable judgment of others, are the only ones to which a person should ever be subjected for that portion of his conduct and character which concerns his own good, but which does not affect the interest of others in their relations with him. (On Liberty)
柳父の訳は、こうでした。
「私が言いたいのはこうである。すなわち、他人から受ける悪評と固く結びついて離(はな)ち難い迷惑は、人が、彼じしんの幸福には影響するが、彼と他人との関係における他人の利益には影響しない彼の行為と性格のある部分のために、いつでも蒙らなければならない唯一の迷惑なのである。」
何度読んでもわかりにくい文章です。
ミルの『自由論』には20種類の翻訳があると言いました。これをすべて比較検討したところ、ほとんどが訳し上げから脱却できていません。中村正直の最初の翻訳から150年くらい経っていますから、その面では進歩がないと言ってもいいと思います。
典型的な訳し上げの例として、以下に水田洋訳と塩尻・木村訳を挙げておきます。一番下は2020年に出た関口正司さんの訳4です。
この文の談話構造(文脈)を下記のように、直前のパラグラフ(談話構造) → 問題の文(情報構造) → その直後の文という流れで見てみます。
先行する談話(文脈)を見れば、何がすでに言われているのか 、何が旧情報なのか(Given)、何が言われていないのか、何が新しく現れた情報なのか(New)がわかります。
このように、実は直前のパラグラフを読むことによって、情報構造の分析ができるようになります。
●『自由論』の情報構造分析と情報構造にもとづいた訳
情報構造分析にはいろいろなやり方がありますが、ここでは初歩的な手法である、ThemeとRheme、GivenとNewで分析しました。(細かい記号の説明は省きます。)
このような情報構造を考慮するとどういう訳になるかというと、
このように、ほぼ節の順番で訳していくことができ、これが情報構造的に妥当な訳であるということになります。上の図の下線の部分が、いわばこのセンテンスの焦点になります。そして、次の文章「しかし他人に害を与える行為は…」との続きぐあい(結束性)もよくなります。
まとめますと、
「私の言いたいのはこうだ。これまで述べた様々な不都合は、他人からの芳しくない評価と決して切り離せないのだが、それだけはどうしても引き受けざるをえない。それは自分の行為と性格の悪い部分に対する代償なのだ。ただその部分は自分の利益は求めるが、(他人と関わる際に)他人の利益に影響を及ぼすことはないのである。」
この日本語訳を読んで、もう一度英文を読んでみてください。スラッシュを入れました。
What I contend for is, // that the inconveniences (which are strictly inseparable from the unfavourable judgment of others, ) / are the only ones / to which a person should ever be subjected / for that portion of his conduct and character // which concerns his own good, / but which does not affect the interest of others in their relations with him.
いきなりは無理かもしれませんが、この日本語訳によって、この英文の内容が理解できるようになるはずです。それが訳読の効用です。日本語を媒介にして英語を理解するということです。
●『ウォールデン 森の生活』の訳し上げ
もうひとつ例を挙げます。ソローの『ウォールデン 森の生活』の一節です。
Occasionally, after my hoeing was done for the day, I joined some impatient companion who had been fishing on the pond since morning, as silent and motionless as a duck or a floating leaf, and, after practising various kinds of philosophy, had concluded commonly, by the time I arrived, that he belonged to the ancient sect of Coenobites.
これを岡本通さんという人が、次のように訳しています。これも典型的な訳し上げです。
「時として昼間の野良仕事の済んだ後、朝から池の面で家鴨か水に浮ぶ木の葉の様に、静かに身じろぎもせず釣り糸を垂れ、様々な思案に耽った挙句、通常私の行き逢う頃までには、自分は古の出家仲間の一人だと断定するに至っている心定まらぬ友と一緒になることがあった。」5(下線は訳し上げを示す)
who以下が全部訳し上げになっていて、わかりにくい文章です。これでは読者は、「朝から池の面で家鴨が水に浮かぶ木の葉の様に、静かにか身じろぎもせず釣り糸を垂れ、様々な思案に耽った」のが誰なのか、確定できないままに記憶に保持しなければなりません。
そして、「通常私の行き逢う頃までには」に出合って、どうも主語は別にあるらしい、という感覚を持ち、「心定まらぬ友」まできてようやく行為の主体がわかります。これは迷路文になっています。翻訳が英語(起点言語)の文法構造に従属しているからこういうことになるわけです。
●『ウォールデン 森の生活』順送りの訳
次に順送りの訳の例を挙げますが、その前に、文法解析をしておきます。
酒本雅之さんの2000年の訳例を見てみます。
「ときおり、その日の除草作業が終わってから、ぼくは朝からずっと池のほとりでじりじりしながら釣糸を垂れている友人に合流した。カモか、それとも水に浮かぶ木の葉みたいに、黙りこくって身じろぎもせずにあれこれと哲人の教えを実践したあげく、彼はぼくの到着する頃には、自分が大昔の『ツレナイナ』派の修道士だとたいていは観念していた。」6
岡本さんは訳していませんが、酒本さんは「Coenobitesシノバイツ」を「ツレナイナ」派と訳しています。ツレナイナというのは、魚が釣れないな、という意味ですね。シノバイツというといかにも中身がありそうですけど、ただのシャレで、See No Bites、(全然釣れない)という意味になります。
ほぼ順送りの訳になっています。情報構造を考えると次のように訳すこともできます。
こんなふうに、情報構造に基づいて順送りすることによって、訳し上げを防ぐことができます。
●新しい翻訳英文法から訳読の復権へ
「翻訳調」あるいは「訳し上げ」は、現在も支配的な訳し方になっています。一方、英語教育では、訳自体が排除されてしまっています。先述のように、高校の学習指導要領では、英語で授業しろとか、訳を使うなというようなことが言われており、文法も軽視されています。
最近、日本以外の言語教育では、TILT(言語教育における翻訳)という動きがあります。それ自体は歓迎すべきですが、TILTは今のところ、どういう翻訳をすればいいのか、ということに踏み込んでいないことが大きな問題であろうと思います。
日本人はオランダ語や英語を漢文訓読とは異なる「訓読法」(あるいは文法訳読法)によって学び、訳してきました。その過程で、「訳し上げ」という強力な規範ができたのです。
一方で、それに対抗する形で、「直読直解法」や「順送りの訳」という主張がぽつぽつと現われてきました。我々としては、その豊かな遺産を十分に活用する形で、「談話構造・情報構造・作動記憶に基づく新しい翻訳英文法」によって、構造の理解にも意味の理解にも役立ち、訳文も改善できるような新しい訳読法、つまりは翻訳法の基本的構想を提示したいと考えています。それが新しい翻訳英文法へということの意味でした。
私の話はここまでとさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
(2021年10月16日 第30回JTF翻訳祭2021講演より抄録編集)
◎講演者プロフィール
水野 的(みずの あきら)
MITIS 水野翻訳通訳研究所 Director
1972年東京外国語大学卒。(株)医学書院勤務。1988年より放送通訳・翻訳と会議通訳に携わる。2002~2007年立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科特任教授。2011年~2017年青山学院大学文学部英米文学科教授。元日本通訳翻訳学会会長。編著に『日本の翻訳論』(法政大学出版局)、著書に『同時通訳の理論』(朝日出版社)。
MITIS 水野翻訳通訳研究所 https://mitis.webnode.jp/
●参考文献
1Information structure and the use of cleft sentences in English and Norwegian. In B. Behrens C. Fabricius-Hansen, H. Hasselgaard & S. Johansson (eds.) Information structure in a cross-linguistic perspective : 113-128. Amsterdam: Rodopi
2上山恭男『機能・視点から考える英語のからくり』開拓社、 2016 年
3 Prince, E. F. (1978). A Comparison of Wh-Clefts and It-Clefts in Discourse. Language ,54:883-906.
4 関口正司『自由論』岩波文庫、 2020 年
5 岡本通 訳注 『 Walden Helix Library 5 』筑紫書房 、 1949 年
6 ソロー著、 酒本雅之訳『ウォールデン 森で生きる 』ちくま学芸文庫 、 2000 年