日本翻訳連盟(JTF)

「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編

第6回:育児問題をきっかけに専業への道を考え始める

スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰するYouTube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介します。前回は、2年の留学後、会社に復帰して業務に励むなか、ひょんなことから翻訳の副業を始めました。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)

自宅療養中に翻訳フォーラムに参加

井口:1996 年に腹膜炎の手術をして、術後、自宅療養をしていたときに、「翻訳フォーラム」へのアクセスに成功しています。

松本:そのタイミングで。

井口:はい。その 1 年くらい前に、「パソコン通信」(遠方のパソコン同士がつながってやりとりする 1980~90 年代によく利用されていたネットワーク)というものがあり、そこに翻訳フォーラムというのがあるらしいと知りました。おもしろそうだからちょっとのぞいてみたいなと思って、モデムを買ったんです。

ところがつながらないんですよ。説明書のとおりにやって、ピッと音がして認識しているのに、AT コマンドを送ると応答が返ってこない……いろいろと格闘したものの、どうしてもつながらない。何回やってもダメで、あきらめて、しばらくしたらまたやってみて、と繰り返していたんですけど、結局、半年以上アクセスできずにいました。それが、自宅療養中にたまたまアクセスできたんです。

松本:へえー。

井口:あのときは Window3.1 でした。

松本:いよいよ Windows ですね。

井口:Windows3.1 は、DOS の上に Windows3.1 が載っているんです。パソコンのスイッチを入れると DOS が立ち上がり、win とコマンドを打つと Windows3.1 が起動するんです。

松本:まだアイコンがないやつですよね。

井口:そうです。説明書に、モデムは Windows3.1 を立ち上げてから挿し込むとあったので、そのとおりにやるんですけど、ピッと音がするのにつながらない。終了時は、モデムを外してから Windows3.1 を終了しろと書いてあったのですが、自宅療養中でまだあまり体調もよくないし、ぼんやりしていたのか、モデムを挿し込んだままシャットダウンしちゃったみたいなんです。それに気がつかずにまたスイッチを入れて、そのまま Windows3.1 までいったら、つながった。

齊藤:なるほど。説明書がウソだったんだ。

井口:そうなんですよ。結局、Windows の状態で入れてもだめで、いったん DOS におりて、DOS のときにモデムを挿し込み、認識させてから Windows3.1 を立ち上げるとつながるシステムだったんです。説明書が間違っているので、説明書のとおりやっている限りつながらなかったんですね。とにかく、たまたまつながってアクセスに成功しました。

齊藤:なんで「成功」とおっしゃっていたのかと思ったら、そういうことだったんですね。

井口:だって 1 年近くかかっているんですから。

専門知識に頼らない翻訳を学ぶ

松本:その翻訳フォーラムは、今で言うところの Facebook の中の翻訳者の方たちのグループみたいなイメージですか?

井口:まあそうですね。翻訳フォーラムには会議室が 30 個くらいあって、エントリー館とアドバンスメント館のふたつに分かれていました。ひとつが 20 会議室ずつ設定できて、オープンになっていない運営用の会議室があったり、会議室が設定されていないところがあったりするので、40 全部は覚えていませんが、30 いくつかありました。分野別だったり、文芸の部屋があったり、雑談の部屋があったり、勉強会の部屋があったりしました。

分野別の専門会議室には金融の部屋、エンジニアリングの部屋、それから IT 系だったかな、3つか4つありました。ちなみにこの専門系会議室の担当サブシスがさきの(高橋さきの)さんでした。

松本:そこで初めてさきのさんに出会うんですね。

井口:そうですね。miko(深井裕美子)さんは、エントリー館関係でいろいろと。エントリー館は、翻訳者を目指している人向けが中心でした。

松本:そこで 3 人が出会ったんですね。

井口:まあそうですね。

松本:あとから帽子屋(高橋聡)さんが入っていらっしゃった感じですか。

井口:帽子屋さんはそのころ、私と同じように参加者の立場でそこにいた人です。月間ユニーク ID 数でだいたい 5000 人くらいと参加者が多かったので、さすがにしょっちゅう書いているような人じゃないとわかりませんね。スタッフは当然みんなよくわかっていますけど、それ以外はなかなか。

とにかく 2 カ月ほど過去ログを読みまくって、夏におそるおそる書き込みをしました。たしかアドバンスメント館の雑談部屋で自己紹介をしたはずです。当時、担当サブシスだったのが、ソフィーさんというハンドルネームの安達真弓さんでした。最初に歓迎のメッセージを書いてもらったのが彼女だったのでよく覚えています。

そのあと専門会議室で訳語についてのやりとりで「辞書を引いてないのか」「リーダーズに載ってる」みたいなことで怒られている人がいて、「え、リーダーズっていう辞書は知らないけど、持ってないとまずいのか」とあわてて買いに行ったりしました。

「翻訳フォーラム」会議室ログ (井口氏提供)

松本:ひとりでやっているとわからないですからね。

井口:そう。私なんか辞書は旺文社の ESSENTIAL(エッセンシャル)しか持ってなかったんです。下手なことを言うと私も怒られるなという感じでした。

松本:あります、あります。

井口:そういうわけで辞書を買いに走ったりしながら、そこで勉強会に参加してみたり、専門会議室でいろんな議論に加わったりするようになりました。それまでは、とにかく我流も我流、要するに自分で読んで書いていたものだからできていた、というものしかやってなくて、それ以外のものはそこで初めて触れたわけです。専門会議室で議論に入るといっても IT系だったり、エンジニア系でも石炭と関係ないものであったり、いろいろありました。それから仕事で貿易をやっていたので、貿易関係の質問や議論に参加したり。ある意味そこで初めて、専門知識に頼る形ではない翻訳のやり方みたいなものを勉強したんです。

あとからさきのさんに、「はしごを全速力で駆け上がってくるような勢いで伸びた」みたいなことを言われました。自分自身は全然そんな意識ないんですけど、さきのさんがそう言うんだから、明らかにいろいろボロボロだったのが、きっとすごい勢いであれこれ身に付けていく過程が見えたんでしょうね。

松本:着々とフリーランスの翻訳者になる準備をそこで、知らず知らずのうちにされていたんですね。

井口:おもしろかったから、わいわいと口をはさんでいただけなんですけどね。

共働きの育児問題

井口:妻の妊娠がわかったのがその少し前で、その年末 12 月に子どもが生まれる予定でした。当時、「育児休業法」が施行されて数年目でしたけど、妻は公務員だったので 1 年間の育児休業が取れました。世の中的にはまだ浸透していなかったのですが、公務員はさすがに法律ができたものは使えるということで、取得できたんです。

でも、その 1 年のあとが問題なんです。子どもの 1 歳の誕生日から仕事に復帰しなくてはいけない。

うちの地域の保育園は、点数制(家庭状況をポイント化した点数によって入園選考を行う)だったのですが、1 歳児の場合は 100 点でも落ちる人のほうが多いので、99 点だったらあきらめてくださいと言われたほどの激戦区でした。

0歳児は枠があるんですけど、0歳児は希望者全員が入園できて、近隣からも受け入れて枠を満たしちゃう。そして1歳児は一保育園あたり 1 人か 2 人しか枠が増えない。育児休業制度ができて間もないころで、1 歳でいれることがなかった時代のまま、保育園の制度が変わっていなかったんです。

だから 1 歳児は入れる保証がないし、入れたところでとてもじゃないけど、われわれ夫婦では送り迎えが不可能でした。親も近くにいないし、どうしようということで、妻がいろいろと調べて、個人で預かってくれるという方を近所で見つけてきました。「いま預かっている子どもがいるけれど、もうしばらくしたらその期限が終わるので、そのあとなら預かれる、仕事で多少遅くなっても連絡してくれれば対応するし、場合によっては駅で子どもの受け渡しをしてもいいですよ」という話でした。

松本:柔軟に対応してくれるんですね。

井口:はい。そういう方が見つかって、割と近くだったし、これでなんとかなる、という話になりました。ところが、秋口か冬に入ったころ、「いま預かっている方から延長してほしいということで、申し訳ないけど受けられなくなりました」と断られて、振り出しに戻ってしまいました。困ったけれどどうにもならず、12 月に 1 人目の子どもが生まれて、妻が育児休業に入りました。

妻を説得してフリーランスへの道を模索

井口:その直後くらいに、私は翻訳フォーラムの大オフ会に初めて参加しています。当時、「大オフ」といって、年末に忘年会的なことをやっていたんです。秋口にオフ会に出て、大オフのことを聞き、年末の大オフにも出たんですね。そのときに、さきのさんと、当時シスオペだった女性の方と、もうひとり、3 人からバラバラに「専業になったら」と言われて、その手があったなと初めて思いました。

松本:なるほど。

井口:私は会社員を続けるというのが大前提でしたから、完全にコペルニクス的な発想の転換でした。本業の仕事が忙しくなったら翻訳をやめるというのは当然あるけど、会社員をやめるという考えはまったくなかったんです。

専業で食べている人が「こっちに来ないか」って言うのは、「こいつだったら専業になってもやれるんじゃないの」と思っているということだろうから、可能性もありそうだと。

松本:そうじゃないとそういうことは言いませんよね。

井口:もしそうなれば柔軟にできるじゃないですか。会社員は時間が決まってしまうし、通勤もあるけど、専業の翻訳者になれば通勤はなくなるし、時間のやりくりができる。保育園の送り迎えをやってそのあと仕事するとか、いろいろとやりようはあるなと思いました。

松本:いっきに問題解決しますよね。

井口:いろいろ考えてみて、これはよさそうだ思いました。妻とは、育児休業明けはどうしようという話をしょっちゅうしていて、年明けに、「私が会社員をやめてフリーランスの翻訳者になれば……」と話を切り出したら、妻の第一声は「冗談じゃない!」でした。

松本:そりゃそうですよ。奥さんは夢にも思っていなかったんですね。

井口:そうなんです。「冗談じゃなくてまじめに考えてるんだけど」とも言えず、そのときはいったんそこで話は打ち切りになりました。それ以上言える雰囲気じゃまるでなかったので。

松本:あんまり言っちゃいけない感じだったんですね。

井口:うん、もう怖かった。

松本:奥さんとしても、そこまで自分の旦那さんに言わせちゃったということもあったんじゃないですか。

井口:いや、もうそのアイデア自体が、宇宙に移住しようっていうくらいに突拍子もない、ありえない話だと感じたそうです。私も親がサラリーマンで、当然自分もずっと会社員をやるものだと思っていましたし、妻のところは基本的に公務員系が多くて、お父さんは大学の先生でしたし。

松本:フリーランスなんて夢にも思っていないですね。

井口:そうそう。たとえば転職、会社を移るというんだったら、もしかしたら考慮の余地があったかもしれないけど、会社員をやめるというのは妻としてはありえない話だったんです。

それで、そのときはいったん引いたんですけど、そのあと、「たとえば朝起きたら子どもが熱を出しているとか、そういうこともあるよね」みたいな話をして。「そういうときに私がフリーランスで家にいれば、とりあえず午前中に小児科に連れていって、行く前にベビーシッターの手配をすれば帰ってくるころにはシッターさんが来るから、子どもを見てもらって仕事ができるし」「午前中くらいはつぶれても大丈夫なように仕事を回していけばなんとかなる。どうしても時間が足りなくなったら何時間か遅くまで仕事するとか、1 時間早く始めるとかして、何日間かかけて取り戻せばなんとかなるし」とか、いろいろなパターンに対して、フリーランスで家にいればギリギリなんとかなるよね、という話をしていきました。

松本:なるほど。こういうシチュエーションが考えられるけど、フリーランスならこうなって……と一つひとつイメージしていったわけですね。

井口:そういう話を繰り返して、妻も、確かにそれだったら何とかなりそうだ、フリーランスとしてちゃんと仕事になるならそれはいいかもね、となるまでに 1 カ月くらいかかりました。そうなったら、次は、本当に仕事になるのかどうかです。生活費は妻の給料でなんとかまかなえるかもしれないけど、少なくとも住宅ローン返済分くらい稼がないといけませんから。

松本:そうですね。

井口:最低限そのくらいは稼げないと、ということで、そのへんを確かめてみようと 3 月くらいから独立の準備を始めました。独立するには、分野を広げる、取引先を広げる、単価を上げるということが必要です。それまでは石炭関係の論文しかやっていなかったんですけど、専門知識に頼る翻訳者から普通の翻訳者にならなきゃいけない。そういう翻訳者になれるのか、なったとして稼げるのか、仕事は来るのか。

ここまでは私はすごく流されてきたかたちでした。自分で考えて、どういうふうにしようと展開を考え始めるのはここからなんです。(次回に続く)

(「Kazuki Channel」2021/8/22 より)

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←第 5 回:会社員と二足のわらじで翻訳者への第一歩を踏みだす

◎プロフィール
井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye
翻訳者(出版・実務)
1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。
2005 年からは出版翻訳も手がけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。

◎インタビュアープロフィール
松本佳月(まつもと・かづき)
日英翻訳者/JTF ジャーナル編集委員
インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle 版、2022 年)。
齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito
実務翻訳者
電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネータ、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。
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