日本翻訳連盟(JTF)

作家として、翻訳家として――日本語を慈しみ、中国語と戯れる(後編)

講演者:日中二言語作家、翻訳者 李琴峰さん

本特集では、日本翻訳連盟主催の翻訳祭やセミナーから選りすぐった講演の抄録をお届けします。前回に続いて今回は、第31回JTF翻訳祭2022の会期に先立ち「翻訳の日」を記念して行われた、芥川賞作家・李琴峰さんの基調講演から、後編です。

●さまざまな翻訳の仕事

私は言葉が本当に好きなので、ずっと昔から言葉を生業にしたいと考え、ごく自然に創作と翻訳の仕事に就きました。

大学時代は台湾で中国文学科に在籍していて、先生から日本語の漢文学の文献を翻訳してほしいと頼まれ、研究アシスタントとして翻訳の仕事をしました。その後、日本の大学院に入り、院のアルバイトでも翻訳をしていましたし、当時から翻訳会社に登録してフリーランス翻訳者になりました。

業界で有名な何社かの翻訳会社に登録し、ゲーム、契約書、ビジネス文書、インバウンド関係、企業の研修資料、商品パンフレット、学術論文など幅広い分野の翻訳をやりました。また翻訳の校正、機械翻訳の訳文評価作業、時には通訳の仕事をしたこともあります。翻訳の仕事が増えてくると、他の人の、場合によってはあまり質が高くない翻訳校正はすごく苦労するので、今はほとんどやっていません。

ほかにライトノベル、漫画、ネット記事、そして文芸翻訳といったものもやっています。日本のライトノベルと漫画は、かなり速いスピードで大量に台湾に輸入されていて、けっこう需要があります。ですから日本語から中国語への翻訳をしてみたいという方は、ライトノベルや漫画をやってみてもいいかなと思います。

●産業翻訳と文芸翻訳の違い

産業翻訳と文芸翻訳はどちらもやったことがあります。この両者は、まず仕事のスパンが違います。産業翻訳の納期は3日間とか1週間ですが、文芸翻訳は半年、1年、場合によっては2年間といったスパンで仕事をします。

報酬に関しては、産業翻訳では文字数で計算することがほとんどです。文芸翻訳は日本の場合、本の印税の何パーセントかで計算します。ただし、これは国によって違うようです。台湾では文芸翻訳であっても文字数で計算するのが主流だそうです。

ネームバリューの違いもあります。文芸翻訳では翻訳者の名前が出るけれども、産業翻訳のほとんどは出ないので、自分の仕事だとアピールすることがなかなか難しいです。

また、文芸翻訳は鑑賞が主な目的なので、非常に正確に訳すというよりは可読性を大事にしないといけない場合もあります。それに対して産業翻訳は、鑑賞というよりは実用的な文章、ビジネス文書なら情報伝達が大事です。もちろん可読性も大事ですが、契約書だともともと回りくどい文章がほとんどですから、それをへんに改造するよりは正確性を大事にしなければなりません。

産業翻訳にもいろいろな分野があります。私は物理学や科学、医学など理系の専門的な翻訳をやったことはありませんが、文芸翻訳においては、内容の専門性とは違うものを求められます。文章の芸術性です。

小説の場合は登場人物がいて、それぞれの性格があるので、その性格に合わせて適切な台詞の口調や位相を選択しなければいけないという難しさ、そして面白さがあります。実例を挙げてみましょう。台湾の作家、李屏瑤さんの小説『向日性植物』を私が翻訳した冒頭の文章です。

「心の中に、とある夏の午後を入れようその時間はどんな時間とも異なり、どれくらい歳月が経っても再現することが難しい夕方に近い午後、芝生には一日分の太陽の温もりが保存されていたあなたは膝を抱えて座っている陽射しが建物の間から射し込み、まるでフィルターを通して世界を見ているかのように、全てが黄金色の光に覆われていたあなたはやっと、この楕円形の芝生は校庭の真ん中であると気づく」(『向日性植物』李屏瑤著、李琴峰訳)

句点の「。」が5つ出てきています。中国語の原文はどうなっているでしょうか。

「在心裡放進一個夏日的午後, 那樣的時光不同以往,不管又經過多少年月, 今後也難以複製下午之後, 傍晚之前, 草地上儲存著整天太陽的餘溫妳抱著膝蓋坐著, 陽光從建築物中間照過來,像是隔著濾鏡看世界, 一切都覆蓋著金黃色的光, 妳終於看清楚這片橢圓形的草地, 原來是操場的中央。」(『向日性植物』李屏瑤著)

中国語は少し短くなって、句点は三つしかありません。中国語ではもともと三つの文ですが、日本語では五つの文にしました。そのほうが読みやすいですね。中国語は、文がどこで終わるのかよくわからないという特徴がありますが、日本語に訳す時は適切なところで文を分割する作業が入ります。

そして、日本語訳では、「心の中に…入れる」ではなくてあえて「入れよう」と意向形に訳しました。原文の「放進」には「入れよう」というニュアンスはないのですが、この文章は書き出しの一部なので、こう訳すのが適切だと考えたからです。

また原文では、「下午之後, 傍晚之前」と書いてあります。これは「午後の後、夕方の前」という意味ですが、中国語ではなぜこう書くのかというと、四文字と四文字を揃えたいんです。リズムの問題です。中国語の文芸的な文章は四文字ずつ揃えがちですが、日本語ではその必要はないので、「夕方に近い午後」と訳しました。このように中国語と日本語の特性を生かして訳すことが大事です。

●文芸翻訳での工夫

もう一つの例です。私の小説『ポラリスが降り注ぐ夜』から、新宿2丁目のバーでボッたくられそうになっている夏子をかばう、大人の女性の台詞です。

「この子、まだ二十代前半でしょ? 仕事もまだ探してるみたいだし」
女性は夏子のリクルートスーツの肩を軽くぽんぽん叩いてから、店長に向かってそう言った。「けいくんだって、二十代の頃は大変だったでしょ? 若い子にはもっと優しくしてあげてもいいんじゃないの?
はあ」女性に指摘され、けいくんと呼ばれた店長はきまり悪そうに頭の後ろを何回か引っ掻いた。「しかしお金は
「だから、ボるにも対象を選んでねってことよ。お水でもそれくらい誇りは持たないと」
女性は夏子に顔を向けた。「いくら持ってるの?
夏子は女性に伝えた。
「五千円にしてやったら? どうせ決まった値段があるってわけじゃないでしょ?」
女性は店長に言った。「なんなら私にツケてくれてもいいよ」
「じゃ、差額の分はそうさせていただきます
(『ポラリスが降り注ぐ夜』李琴峰)

赤字のところに注目してください。「叩く」は、日本語では、バンバン叩くとか軽くぽんぽん叩くとか、いろいろな重さがあります。では「軽くぽんぽん叩く」を中国語ではどう訳すのか。また、「はあ」「ボる」「お水」「誇り」「ツケる」は、中国語でどう訳すのか。

「這孩子看起來還不過二十出頭不是?而且似乎還在找工作。」
女人在夏子求職套裝的肩膀處拍了幾下示意, 對店長如此說道。「小桂你二十幾歲的時候也是辛苦過的, 就不會對年輕的孩子溫柔些嗎?」
這個……」 被女人這樣一說, 名叫小桂的店長一臉尷尬, 撓了撓後腦勺。
但錢還是得付吧……
「我是在跟你說, 想坑錢也得挑對象, 做這一行的也得有些骨氣好嗎?」
女人說完後, 望向夏子:「妳帶了多少錢?」
夏子據實以告。
「你就算她五千不就得了?反正你這店裡也沒有固定的價錢不是?」女人聽了, 對店長說道:「大不了你就算我賖的帳。」
「好, 不夠的部分我就這樣算。」
(『ポラリスが降り注ぐ夜』李琴峰著・訳)

まず、「軽くぽんぽん叩く」は、中国語では「拍」という動詞が適切だと思いました。「也是辛苦過的」は小説的な言い回しです。「はあ」という言葉は、中国語できまり悪そうに、ためらっている時に言う「這個……」と訳しました。「しかしお金は」のところは、中国語では文の最後まで言うのが特徴なので、「但錢還是得付吧……」としています。「ボる」は最近の中国語では別の言い回しもありますが、ここでは時代背景が90年代であることも考慮して「坑錢」。お水は「做這一行的」と訳しました。「不就得了」「大不了你就算我賒的帳」もかなり工夫した言い回しです。

●日本語の表現の多様性

日本語は、「〇〇でしょ」とか「〇〇もいいんじゃないの」「いくら持ってるの」のような語尾の違いによって、この台詞を言っている人の年齢や性別が想像しやすくなっています。しかし中国語では、位相あるいは役割語のようなものは日本語ほど発達していないので、表現することが難しいのです。逆に中国語から日本語に訳す場合は、登場人物の性格、特徴、性別によって適切な位相の言葉を使う工夫が必要です。

日本語の表現は本当にすごく多様性がありますね。

たとえば「楽しい」なら、「~楽しいよ」「~楽しいね」「~楽しいよね」「~楽しいんだね」「~楽しいな」「~楽しいよな」「~楽しいかな」「~楽しいでしょ」「~楽しいだろう」「~楽しいといいね」「~楽しいといいよね」「~楽しいといいな」。

こんなにたくさんある日本語の表現を中国語に訳すと、たぶん同じものになってしまうものも出てきます。他の言語を日本語に訳した時に、このような語尾の選択も工夫が必要になってきます。

●文芸翻訳の質向上のために

最後の例です。去年、芥川賞を受賞した時の私の「受賞のことば」です。

デビュー時に書いた「受賞のことば」を読み返すと、「不条理に押し付けられた人間としての生」とある。それがまさに私を縛りつけ、痛めつけ、踏み躙り、絶望の淵に突き落としては筆を握るようけしかけるものの正体と思えてならない
言葉生かしも殺しもするし、文学は希望にも絶望にもなる。絶望の淵にいる人にとって、文学は救いの一点の光であってほしい。出生から永眠まで、自分自身では到底どうしようもない多くの物事に対して、精一杯抗う力になってほしい。経済的な苦境や疫病の拡散に文学は無力かもしれないが、暗闇に沈む魂に明かりを灯すことができれば、それは道標となろう。私はこうやって生き延びてきた。これからも、何とか生き延びてみたいと思う。(300字)

わずか300字の受賞の言葉ですが、これは文学的な表現がたくさん入っていて、たぶんすごく翻訳しづらいと思います。台湾の出版社がこの受賞のことばを中国語でネットに出したいと言ってきましたが、私は受賞直後でとても忙しく、自分では翻訳できないので他の人に頼んで翻訳してもらうようにお願いしました。そこで台湾の出版社が他の翻訳者に依頼し、返ってきた訳文が下記です。

回顧起出道時寫的 “得奬感言” , 上面寫著身為人, 被荒謬、不合理壓迫的活著”。這確實是束縛我、傷害我、踐踏我, 將我推入絕望深淵, 促使我執筆的真實樣貌
文字既是活的, 也可以是死的。文學可以是希望, 也可以是絕望的。對身處絕望的人來說, 我希望文學能成為他們的救贖之光。從出生到死去, 對於許多無可奈何的事, 我希望能成為盡全力對抗的那股力量。或許文學對經濟困境, 疾病的蔓延無能為力, 但它能照亮沉沒在黑暗中的靈魂的話, 將會是人生的路標。我這樣過來的, 今後, 我也會想辦法繼續這樣生活著

一読して、これはだめだと思いました。赤字のところが問題となっている箇所です。まず一番難しいのは「不条理に押し付けられた人間としての生」というフレーズです。これは、自分は自分の意思で生まれたわけではないのに生まれさせられた、というのが本来の意味合いなのですが、この訳文の“身為人, 被荒謬、不合理厭迫的活著”は完全に誤訳になってしまっています。それから、「言葉は生かしも殺しもするし、」の訳文「文字既是活的, 也可以是死的」も完全な誤訳で、「言葉は生きているし、死んでもいる」という意味になっています。

後半の原文「絶望の淵にいる人にとって、文学は救いの一点の光であってほしい。出生から永眠まで、自分自身では到底どうしようもない多くの物事に対して、精一杯抗う力になってほしい。」の最後の「精一杯抗う力になってほしい」は、「何に」抗う力になってほしいのかというと、主語は前の文の「文学」に掛かっています。「文学は~であってほしいし、~になってほしい」という構造なのですが、どうやらこの翻訳者は読み解けず、「我希望能成為盡全力對抗的那股力量」、つまり、「私が」そういう力になりたい、というふうに訳しています。読解力が足りないから、原文を読み間違えているのです。

この訳文ではだめだろうと、別の翻訳者に頼んで戻ってきたものもだめで、仕方なく結局、自分で訳しました。それが次です。

回顧出道時寫的「得奬感言」, 發現其中有「荒謬遭到強加於己身的人生」這樣一段話。我由衷覺得, 這正是那束縛, 折磨, 踐踏著我, 將我推落絕望深淵, 又促使我握筆寫作的事物的真面目。
文字能救人, 也能殺人;文學能成為希望, 他能成為絕望。對身處絕望深淵的人而言, 我希望文學能是那一絲救贖之光, 能是種奮勇抵抗的力量, 幫助我們去抵擋那些自出生乃至永眠, 單憑一己之力所絲毫無法撼動的諸多事物。面對經濟困境或是疫情擴散, 文學或許無能為力;但若文學能替沉浸於黑暗裡的靈魂點亮一盞燈光, 興許那便能成為生之道標。這便是我賴以存活方式, 而今後, 我也會設法存活下去

かなり工夫した訳し方です。まず「文学は~であってほしい。~になってほしい」という文章については、「希望文學能是~, 能是~」というふうにひとつの文につなげてしまいます。「私はこうやって生き延びてきた」は、最初の訳者は「我是這樣活過來的」とすごい直訳をしていますが、私は、「這便是我賴以存活方式」(これが私が頼って生きてきた生き方)と、「賴以存活」の四文字のリズムを大事にしながら工夫した訳し方をしました。

このように、300字の短い文章でも翻訳の質の差が出てきます。

私の経験から、翻訳スキルの向上のためのアドバイスをしますと、まず表現力を高めるために文学作品をたくさん読むこと。そして実生活を通して実際の言語使用を観察すること。そうしてソース言語の読解力を磨き、ターゲット言語においては表現力を磨くことが必要です。

●自作自訳の特権

アメリカ人の作家リービ英雄さんは、母語は英語ですが、日本に住んでいて日本語で小説を書いています。母語が英語だから自分の作品を自分で英語に翻訳できるのではないかといろいろな人に聞かれて、彼はこう言っています。

「自分で書いたからといって、自分で英訳もできるわけじゃない」「医者が自分の身体に手術するようなもの」

私はちょっと違う考え方です。私にとって中国語と日本語は二台の機械であり、作家としての私と翻訳家としての私は、二人の人間です。だから翻訳家になり切った時に、作家として書いたものを自分自身の作品だからといって翻訳することは難しくはないと思っています。

といっても「自作自訳って本当に翻訳という感じですか? それとももう一度書き直す感じなんですか?」とよく聞かれます。「本当に翻訳する、書き直しではない」が私の答えです。ただし、私は原作者なので、その特権を最大限に発揮し、ターゲット言語の特性に合わせて文を組み直したり、要素を足したり減らしたりといったことはやっています。さらに原作者として物語の時代背景や人物設定を熟知しているので、役割語など位相の選択にはいっそう有利ですし、自分のつくりたい、表現したい文体もわかっているので、できるだけ近い文体を再現できるという特権もあります。それでもそれはあくまで翻訳であって、書き直しではありません。もし本当に書き直しであれば、もっと違うものになっていたはずだと思っています。

本日は少し駆け足になったところもありましたが、ご清聴ありがとうございました。

(2022年9月30日 第31回JTF翻訳祭2022「翻訳の日」基調講演より抄録編集)

◎講演者プロフィール

李 琴峰(リ コトミ/Li Qinfeng)

日中二言語作家、翻訳者
1989年台湾生まれ。2013年来日。17年、初めて第二言語である日本語で書いた小説『独り舞』にて第60回群像新人文学賞優秀作を受賞。以来、二言語作家・翻訳家として活動。19年、小説『五つ数えれば三日月が』(文藝春秋)で、第161回芥川龍之介賞、第41回野間文芸新人賞候補に。21年、小説『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房)で、第71回芸術選奨新人賞を受賞。同年、小説『彼岸花が咲く島』(文藝春秋)で第34回三島由紀夫賞候補、第165回芥川龍之介賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』など。訳書に東山彰良『越境』(日本語→中国語)、李屏瑤『向日性植物』(中国語→日本語)など。

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