私の一冊『風の影』
第24回:英日翻訳者 吉井智津さん
1945年のバルセロナで、十歳の少年ダニエルは古書店を営む父親に連れられ訪れた「忘れられた本の墓場」で、その後の人生をとおして彼を虜にする一冊の本と出会います。
カルロス・ルイス・サフォン『風の影(上・下)』(木村裕美訳、集英社文庫)は、一冊の書物をめぐる壮大なミステリー小説であり、私が紹介するまでもなく、世界中の本を愛する多くの人々に支持されている名作です。
作中に登場する翻訳者のヌリアの仕事にかんする思いが他人ごととは思えないとか、猫たちがいい仕事をしているとか、ときどき思い出しては読み返したくなる要素がこの本にはいくつも含まれているのですが、あえて今回、ここで取り上げようと思ったのは、運命の本との出会いの場面で、出会うべき本のほうが人を待っていたことが書かれていたからでした。現実的な理由から、本の翻訳はこれが最後かもとあきらめかけたことが、私にはこれまで何度かありました。けれどそのたび、つぎに訳すべき本が奇跡のように現れて、出版翻訳の世界にひきとめてくれたことを思うと、出会うべき本が誰かを待っているというのは、本のなかだけの話ではないように思えてくるのです。
◎執筆者プロフィール
吉井智津(よしい ちづ)
英日翻訳者。英米の小説、ノンフィクションなど書籍の翻訳をおもに手掛ける。おもな訳書に、ダヴィド・ラーゲルクランツ『闇の牢獄』(KADOKAWA)、アンナ・シャーマン『追憶の東京 異国の時を旅する』(早川書房)などがある。
★次回は、西日・英日翻訳の三角明子さんに「私の一冊」を紹介していただきます。