翻訳者の原点とは何だろう
第3回JTF関西セミナー
翻訳者の原点とは何だろう
井口 耕二
技術・実務翻訳者、JTF常務理事
2012 年度第3 回JTF 関西セミナー
2013 年1 月25 日 14:00 ~ 17:00
開催場所●大阪大学中之島センター
テーマ●「翻訳者の原点とは何だろう」
講師●井口 耕二氏 技術・実務翻訳者、JTF常務理事
報告者●射場今日子 個人翻訳者
第3回関西翻訳セミナーの講師は、時の人、井口耕二さんである。今回のセミナーは「翻訳者の原点とは何だろう」をテーマとして、満席の会議室で行われた。参加者は9割以上が翻訳者、残り1割弱が翻訳会社の関係者であった。
セミナーの前半では翻訳者の原点についてのお話があり、後半では井口さんが実際に翻訳を行う際の作業の流れと、それに伴う思考の流れをご紹介いただいた。その後、書き手の伝えたいことを意識して書かれた訳文について考察した。セミナーの内容を前半と後半に分けて報告する。
1、前半 「翻訳者の原点」について
最近、翻訳者に対して、「早い、安い、うまい」が求められている。ここで井口さんから参加者に対して質問があった。
翻訳メモリーを使っている人は?
→約2割。
そのうち、翻訳メモリーを使用していて楽しい人は?
→使用者の約半数。
機械翻訳を使っている人は
→ごく少数(少人数のためこれ以上の質問は無し)。
翻訳メモリーも機械翻訳も使っていない人は
→約8割。そのうち、翻訳が楽しい人→約半数。
翻訳者にとって大事なのは報酬とやりがい。では、翻訳者のやりがいとは何だろうか?また、翻訳者の報酬は何によって決まるのだろうか?
翻訳者と翻訳会社は戦略が大きく異なる。
戦略構築の基礎として、翻訳の価格と品質の関係を検討してみたい。翻訳の価格と品質の間には一定の関係がある。ユーザーの満足する範囲とは、要求される品質の最低ラインをクリアし、かつ価格はプロレベルのなるべく低い値を満たす範囲である。翻訳会社は、商品価値、すなわち翻訳の品質を変えずに価格を下げようと考える。
この戦略を翻訳者は取りえない。翻訳の品質は、目の前の案件にかける手間によって決まると考える人が多い。しかし実際には、品質の大半が、過去に蓄積されたものから生み出されるものであり、目の前にある案件にかける手間に起因する品質の差は小さい。すなわち、翻訳の品質は、過去の蓄積や実力によってこそ上下するのである。
安売りには大きな危険が潜んでいる。「値下げ圧力→対応する→品質は確保する→これが普通になる」というサイクルが循環し、さらに値下げが続くことである。もう一つの危険性は、「値下げ圧力→対応する→品質が低下する」というサイクルによっても値下げが続くことである。
現在の市場のイメージは、品質がそこそこで低価格の大きな集団と、高品質・高価格の小さい集団に分かれているワインボトル型の図であると考えられる。この中で、自分はどこを目指すのか、そしてそのためには何が必要なのかを考えよう。
ここでスティーブ・ジョブズの『相手が何を望んでいるかを見極めることが重要なんだ』という言葉が引き合いに出された。翻訳者も、「相手の本当に欲しい物を提供することが大切」なのである。
具体的に検討してみる。翻訳の実力に関係するものとして挙げられるのは、外国語、母語、専門知識、調査力、ツール対応力、営業力である。このうちの、ツールを使用する意味には、用語表現、再利用、効率アップ、分担の必要性、コストダウン、インターフェースがある。
翻訳の品質という観点から考えると、人間の手による翻訳の品質は低品質から高品質までにわたるのに対して、MT+編集による翻訳では、低品質から中程度の品質になるのではなかろうか。その理由は、翻訳の出来栄えは、一次翻訳に大きく依存しているからである。ツールを使用する翻訳では英文解釈は正しくても、原文が全体として何を伝えたいかを意識した翻訳にはなっていない場合がある。
営業力とは、自分の「売り」を見つけること、「売り」を身につけることである。「売り」があるとないとでは、全く違う。「売り」があると売り込みやすい。
人間は習慣の積み重ねである。日々の勉強や努力は、薄紙を一枚ずつ積み重ねていくようなものである。その差はすぐには分からないが、1年、5年、10年と続けていくうちに蓄積していく。したがって、日々の積み重ねが実力アップにつながる。
翻訳者の機能とは、営業、チェック(訳抜け、数字、スタイル)、リライト、DTP、納品、料金回収である。このうち、チェックとリライトは工程の工夫しだいでダブルチェック並の精度まで上げることが可能である。一番の品質管理は、一次翻訳者にかかっている。後工程に甘えずに、自分の訳文で勝負しよう。
ソースクライアントとの直接取引についても考えてみる。そのメリットは、早い、質が安定する、使用目的に適した翻訳、セキュリティ、同じ文書の場合の処理など、ソースクライアントにとってもメリットがある。翻訳者にとっては、やりがいも大きくなる。一方、デメリットとしては、仕事量の上下が激しい、断れない、大きな仕事で無理しがちであることなどが考えられる。
個人翻訳者の場合は、時間にも体力にも限界がある。基本に立ち返ることが大切である。また、打診を受けた仕事を断る回数が多い場合は、翻訳単価を値上げして、仕事量を調節するという方法も考えてみる。
日本で翻訳者として一番大事なものは、翻訳の質である。ターゲット言語で書き起こせばこうなるであろう、という訳文を書くことである。逆に言えば、最初から日本語(ターゲット言語)で書いたらこうはならない、という書き方をしてはならない。
2、後半 実際の翻訳手順と思考の流れ、および訳文の検討
まず、井口さんが実際に翻訳を行っている時の作業の流れと、それに伴う思考の流れを、パソコン上の実際の作業を記録した動画を再生しながらご説明いただいた。
翻訳作業では、以下をバランスよく行なわなければならない。
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内容を追って読む作業
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原文と訳文の過不足等をチェックしつつ読む作業
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訳文を訳文だけで読んだ場合の文章としての完成度をチェックする作業
この時、訳文の完成度、つまり日本語として成立しているか?←→英語と一致していなければならない←→前の文章とのつながり、段落内でのつながりはいいか?
これを行き来しながら、訳語の選択、文末の処理、情報を提示する順序などを考える。同時に関連情報をインターネットで検索したり、参考文書を読んだりして、訳文を作っていく。日本語に対する鋭い感覚の必要性を感じた。
翻訳作業では、「原文は親切に読む。訳文はいじわるに読む」ことが大事である。原文を、自分の読みたいように読んではならない。原文を読む時は、書いた人が言いたかったことを最大限読み取る。訳文は、著者が言いたかったこと以外の意味にとれないか、なるべくいじわるに読む。
次に、著者の伝えたい内容の伝わる訳文について考えた。
保健所が発表した製品回収の文書
ある製品を食べてはならないという文に続いて、The product can be brought to your local health department or any Sutton Place Gourmet store, or be discarded.
【訳文】これらの製品は、お近くの保健所またはSutton Place Gourmetの各店舗に届けるか、ご自分で廃棄することができます。
【改良訳】これらの製品をお持ちの方は~
この文章の書き手が伝えたかったのは、「この製品を食べてはいけない、廃棄しなさい」である。訳文の最初の部分を読んだ時点で、読む人の注意を喚起する文章にしたい。できるだけ読み手の負担を小さくして、伝えたい内容の伝えられる訳文にする。
井口さんのあたたかいお人柄と興味深いお話に引き込まれて、あっという間の3時間であった。お忙しいスケジュールを縫って、関西までわざわざご足労くださったことに、心から感謝申し上げる。