医薬翻訳の極意、伝授します ~事前課題あり♪~
2015年度第3回JTF関西セミナー報告
医薬翻訳の極意、伝授します ~事前課題あり♪~
森口 理恵
兵庫県生まれ。京都薬科大学薬学科卒業。データベース検索担当者、社内翻訳者を経て、医薬系翻訳者として独立。医学・薬学の論文や健康関連書籍の英日・日英翻訳を手がけ、各種翻訳教育機関において医薬翻訳の指導やテキストの作成を担当している。著書に『まずはこれから!医薬翻訳者のための英語』(イカロス出版)がある。
http://www.r-and-a-medical.net/
2015年度第3回JTF関西セミナー報告
日時●2016年2月5日(金)14:00 ~ 17:00
開催場所●大阪大学中之島センター
テーマ●医薬翻訳の極意、伝授します ~事前課題あり♪~
登壇者●森口 理恵 Moriguchi Rie R&Aメディカル 代表
報告者●礒西 和子(医薬翻訳者)
事前課題は米国疾病管理センター(CDC)が発行する論文誌Preventing Chronic Diseaseに掲載された慢性閉塞性肺疾患(COPD)の論文から採用された(出典:Association Between Prevalence of Chronic Obstructive Pulmonary Disease and Health-Related Quality of Life, South Carolina, 2011.)。本セミナーでは、課題文の一文ごとに訳文が完成するまでのプロセスを丁寧にたどって解説してくださった。その一部を再現して紹介する。
課題文の解説
その訳文を見ただけでおおよその実力が推測される原文だということで、以下の英文の解釈にかなりの時間が費やされた。
Chronic obstructive pulmonary disease (COPD) is a leading, yet under-recognized, cause of illness and death in the United States.
注目すべきポイントは次の3点である。
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a leading cause of death
不定冠詞のaが付いていることに注目する。the leadingであれば「首位の」としてよいが、a leadingなので「上位にある」となる。COPDは米国での死因の何位にあるかを調べてみると、第3位であることがわかり、「上位にある」と訳してよいことが裏付けられた。
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a leading cause of illness
illnessは頭が痛いなどの「体調不良」を表す言葉である。体調不良の原因とは何かと言えば病気であり、"a disease is * cause of illness"で検索すると、a certain disease or condition is the cause of illnessという記述があった。cause of illnessは「疾患」と訳してよいことがわかる。どういう理由でleadingなのかを調べてみると、疾患の頻度を基にして言っていることが判明した。この場合の頻度は電話調査で調べた特定時点の「有病率」であることが出典論文に目を通すことで明らかになった。
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under-recognized
多くの人は、英和辞書に頼ってこの訳語を探そうとするから時間を浪費している。英英辞書でrecognizeを調べると、(この人がCOPDであることが)「わかる」と読み取れる。ここから「認知度」という言葉が連想され、under-recognizedは「認知度が低い」としてよいのではと思い至る。次の段階として、「認知度」という言葉が使えるかどうかの確認が必要となる。認知度は英語でawarenessだから、awarenessとunder-recognizedが一緒に出てくる文章を探して、言い換えなのか別の概念なのかを突き止める。見つけた論文の中にDue to the lack of awareness and ・・・, COPD is under recognized and under diagnosed. を発見。「認知度が低いから、COPDはunder recognizedであり、診断されない」とある。「認知度が低い」は使えないと判断した。もう少し探してみて、「COPDはかなり悪くなるまでrecognizedされず、入院中にCOPDと診断すらされなかった」と記述している英語論文を発見した。ここまできて、under-recognizedは「見過ごされやすい」が適していると判断した。
以上の検討を通じて、次のような訳例が考えられた。
「米国では、COPDは有病率が高く、死因の上位にある疾患であるが、依然として見過ごされることが多い。」
翻訳のお役立ち情報
課題文の解説の合間に随所で、COPDの診断方法から統計学の基礎知識、さらには日本語と英語の概念の違いにも言及された。その一部を挙げる。
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英語の「most」と日本語の「最も」には差がある。「最も」が修飾するものは一人やひとつのように限定されるが、「most」や最上級が修飾するのは、単数又は複数で必ずしも「一番」を意味するものではない。複数にかかる場合は「トップクラス」や「上位」という意味になるので、one of the highest mountains in the worldという表現をする。日本語は数に甘く、英語は数にうるさい言語であることに留意する。
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日本語に訳すときは引き算、英語に訳すときは足し算の考え方をする。日本語では、読者には自明の、くどくなる表現は削ってよい。英語ではわかりきっていることも書かないと通じない。普段の翻訳作業を通じて、2言語の違いを実感して欲しい。
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commonは頻度の表現として使用される。ありふれた、普通にみられると訳してはいけない。
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thanを用いた比較の文章は、原文どおりの順序で訳す。
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英辞郞を使用することは賛否両論があるが、利用してよいと思う。ただし、訳語の確認をとる必要がある。
医薬翻訳の「極意」とは
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英語として読み、日本語で表現する。著者が言いたいことは何であるかを把握した上で、日本語として意味の通じる、こなれた文章で表現することが英日翻訳である。
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ヒントは原文と参考文献にある。出典論文の図表も十分に活用する。最低限、参考文献の抄録まで、資料として読み込む。
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専門領域の「常識」をネット検索で手早く把握する。
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原文と距離を置く。英文に引っ張られすぎない訳文を作成する。
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日本語での情報伝達法を研究する。日本語の表現力を高めるために、辞書に載っていない表現や使えそうなフレーズを日頃から意識してストックしておく。
上達に近道はない。
感想
ここまで調べなければならないのかと衝撃を受けたのは私だけではないだろう。ネット検索を駆使するだけで今回の訳文を作成できることを例示してくださった。検索を徹底的に重ねて、資料を探し出し、訳語としてこれは使えるかどうかの裏付けを取りながら訳文を作成していく、こういった入念な過程が明快に示され、参考にすべき翻訳手法を学ぶことができた。Google検索はノイズが多くなって調べ物に使いにくくなったという声が昨今きかれるが、使い方次第でネット検索は極めて有用な手段であることが実証された。いいものを仕上げようとすれば時間がかかる。しかし、辞書相手に悩む時間を、資料を探して読み込む時間に振り向ける方が結局は早いとのことである。決して手間ひまを惜しんではいけないことを痛感した。
受講を終えた参加者には、目指すべき達意の翻訳とはどういうものであるかがしっかりと刻まれたに違いない。