日本翻訳連盟(JTF)

訳例で読み解くノンフィクション翻訳~訳文のクオリティを上げるには~

2016年度第2回JTF翻訳セミナー報告
訳例で読み解くノンフィクション翻訳
~訳文のクオリティを上げるには~

村井 章子

上智大学文学部卒。商社勤務、実務翻訳を経て2002年から出版翻訳。主な訳書に『資本主義と自由』(日経BP社)、『LEAN IN』(日本経済新聞出版社)、『ファスト&スロー』(早川書房)、『善と悪の経済学』(東洋経済新報社)、『帳簿の世界史』(文藝春秋)など。『幸福論』、『トマ・ピケティの新・資本論』(日経BP社)などフランス語からの翻訳や、古典新訳も積極的に手がけている。
 



2016年度JTF第1回翻訳セミナー報告
日時●2016年8月4日(木)14:00 ~ 16:40
開催場所●剛堂会館
テーマ●訳例で読み解くノンフィクション翻訳~訳文のクオリティを上げるには~
登壇者●村井 章子 Murai Akiko  出版翻訳家
報告者●冨永 陽(翻訳者/翻訳チェッカー/翻訳コーディネータ)

 



今回はノンフィクション作品の英日翻訳で活躍されている村田章子さんを講師に迎え、実際にご本人が手掛けた書籍などを参考にしつつ、実務翻訳に携わっていた時の経験も交えながら、優れた訳を編み出すコツや心がけている点をお話しいただいた。
 

翻訳は演奏に似ている

翻訳は、原文を読んで訳者が理解したことを訳文で再現した結果であり、読者は訳者が再現した文章を読む。これは、楽譜から作曲家の意図を解釈した奏者の演奏を聴衆が鑑賞することに似ている。また、翻訳も演奏も「これが正解」というものは存在しない。だが、訳者が原文の理解を誤ると読者に間違った考えや情報が伝わってしまうため、訳者が負う責任は非常に重いと言える。
 

翻訳は「深く読む」ことから

訳者が原文を読むのは普通の読書とは違う。普通の読書であれば、分からない部分を飛ばしたり適当に想像したりして済ませられるが、翻訳では細部まで理解できないと訳文として再現できない。語句の意味はもちろんのこと、テキスト全体での文やパラグラフの位置づけまで把握し、抽象的な内容が何を指しているのかを考えながら読み進める姿勢が自ずと訳者には求められる。接続詞のbutも使い方によって前の文ではなくパラグラフの内容と反対の話を切り出していることを訳者が認識できなければ、書き手の意図が正しく伝わる訳にならない。

書き手の意図や性格を文体から感じ取れれば、原文から大きく外れた訳文になることもない。原文の理解が浅い時や誤った解釈をしている時に「何か変だな」と立ち止まって考えられる。この「何か変だな」という感覚を常に忘れないよう心がけることが大切である。ノンフィクション作品の翻訳では事実関係を調べる中で不明点が理解できることもあるが、最後まで読まないと解明できなかったり、訳語が定まらなかったりする場合もある。いずれにせよ、原文全体を一つの文脈として捉える姿勢が不可欠である。
 

自然な日本語で訳す

正しく解釈ができたら次は日本語で再現する。原作の面白さを読者に伝えるには、森鷗外も言うように「作者が日本語で書くとしたらどう書くだろうか?」と想像しながら訳出するのが望ましい。これは自然な日本語表現を目指すことにも通じるが、多くの人が得てして不自然な表現に陥りがちである。

訳文がぎこちないと思ったら語順を見直してみると良い。以前、翻訳コンテストの審査員を務めた時も語順を並び替えるだけで読みやすくなる訳が見受けられた。係り受け (修飾・被修飾) の関係にある語句をすぐ近くに置くだけでも格段に読みやすくなる。修飾語が複数ある時は長い修飾語から並べると上手くまとまるが、一度に並べる修飾語をあまり多くならぬよう工夫する。漢語と和語のバランスも大事。
 

英語と日本語の特性

自然な日本語訳を目指すには、英語と日本語の特性を頭に入れておく必要もある。この両言語には語順以外にも様々な違いがある。たとえば無生物を主語にした構文もその一つで、日本語にはあまりなじまないこともある。

また、英語では形容詞の使用頻度が日本語より高いとの統計も出ている。原文に形容詞がいくつも出てきたら品詞転換や別の表現に置き換えるとこなれた訳文になりやすい。
 

辞書の訳語

「たかが辞書 信じるはバカ 引かぬは大バカ」という格言もあるが、辞書にある訳語が目の前の訳文にそのまま使えるとは限らない。辞書を引いて意味を確認した後で本当に相応しい訳がないかを考える習慣も非常に大切である。

例えばoftenを「しばしば」と訳す人がいる。たしかに英和辞典の訳語でよく見かけるが、普段の会話や文章の中で「しばしば」はさほど使っていないと思われる。普段使わない表現は訳文でも避けるべき。
ほかにも「at least = 少なくとも」と機械的に訳してしまいがちな表現も、普段どのような日本語で表現しているかを思い浮かべれば次の例のような訳もできる。

• You could at least try to be a bit more polite. (もうちょっとお行儀よくできるといいんだけどねぇ)
• You should read Les Miserable at least once in a lifetime. (一度は『レ・ミゼラブル』を読むといいよ)
 

訳は必ず見直す

翻訳したら訳の見直しも忘れない。見直すか否かで訳文のクオリティが決まるともいえる。見直しの時間が確保できるよう逆算して翻訳のスケジュールを組み、訳してからある程度の時間を空けて「白紙の心」で自分の訳を眺めると良い。他の人に読んでもらうのも効果的 (ただし旦那や奥さんに頼むと容赦ない指摘がケンカのもとになりかねないので注意)。客観的に読むことで気づかなかったミスや間違いを見つけられる。

最後は普通の速さで訳文を読んでスッと頭に入ってくるか、引っ掛かる部分はないか確認する。締め切りが近いと訳の見直しも端折りがちだが、この手間を惜しまないことが肝心。また、自分で何度も使いがちな言葉や表現の癖、訳漏れなどの頻度も把握しておくと見直しの精度も高まる。
 

言葉に敏感

良い訳者になるには、普段から言葉に敏感であり、場面や文脈に応じて最適な表現が使えるよう常に意識することも大切である。実務翻訳であれば少なくとも新聞、文芸翻訳であれば好きな文学作品などを日頃から読んでいけば、自分で使える語彙や表現が徐々に増えてくる。

生活の中で見聞きする言葉にもアンテナを向けよう。電車の中吊り広告も面白い表現や気になる言い回しに溢れている。この「気になる」感覚を忘れず、気になった言葉があれば、一般的な言い回しなのか「少納言」などのコーパスで確かめてみよう。こうした検証は書く時にも役立つ。
 

まとめ

訳者の務めは、原文を正しく理解し自らの訳を通して読者に作品を楽しんでもらうことである。その意味で、翻訳はエンターテイメントである。読者の心に残る訳文を目指しつつ、読んでストレスを感じない自然な訳文を心がけたい。原作の背景を調べて裏づけをとり、想定する読者層を踏まえて訳を選び、「何か気になる」という感覚を常に忘れず、時には作者に問い合わせるなど最善を尽くす。言葉への興味や意識を普段から培うことも大切である。
 

 
セミナーの冒頭、村井さんから「私の訳で気になった点があれば遠慮なく教えてください」とアナウンスがあり、セミナー終了後に数名のベテラン翻訳者が配布資料を手に「ここはこうなのでは?」と問いに行く姿が見受けられた。指摘された点を柔軟かつ素直に受け入れる村井さんの姿に訳者として必要な資質の片鱗を垣間見た思いがした。
 

紹介された書籍&ウェブサイト

• 木下是雄『理科系の作文技術
• 本多勝一『実戦・日本語の作文技術
• 柳父章『翻訳語成立事情
• 同上『日本の翻訳論―アンソロジーと解題
• 共同通信社『記者ハンドブック
• 小学館『使い方の分かる類語例解辞典
Linguee (オンライン対訳辞書)

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