4-3 私たちは逃げ切り世代?― 翻訳者に未来はあるのか
実川 元子 Jitsukawa Motoko
翻訳者/ライター。上智大学仏語科卒。在学中にフランスのアンジェ・カトリック大学に留学。アパレル関連社に延べ14年間勤務後独立。1991年より現在まで出版翻訳にたずさわる。近訳書『菊とポケモン』(Aアリスン)『堕落する高級ブランド』(Dトーマス)『孤高の守護神 ゴールキーパー進化論』(Jウィルソン)『PK』(Bリトルトン)など。
井口 富美子Iguchi Fumiko
翻訳者。立教大学文学部日本文学科卒業。卒業後は専門図書館に勤務。数回の短期留学とバイエルン州の小中高校でのインターンシップ(半年間)を経て1992年から1994年までフンボルト大学文学部日本語翻訳学科(ドイツ/ベルリン)に留学。帰国後は翻訳会社に10年間勤務し、2005年にフリーランスの翻訳者として独立。
報告者:石飛 千恵(フリーランス翻訳者)
このセッションでは、翻訳者歴20年以上の実務翻訳者と出版翻訳者が、翻訳者としてのこれまでの経験と今後も生き残るために何が必要かを対談形式で探った。
はじめに
実川氏:『翻訳というお仕事』を書いた縁が今回のセッションに結びついた。実は出版翻訳に関して未来は明るくないと思っていた。本執筆の依頼も最初は一度断ったくらいである。しかし、翻訳は文化の根幹であり、その大切な仕事を次の世代に引き継ぐにはどうしたらよいかを考える良い機会であると思い、執筆を引き受けてこのセッションにつながった。この本の執筆にあたって実務や映像の翻訳者10人にインタビューを行い、そのうちの一人として井口さんにもお会いした。
井口氏:これまで 21年間翻訳の仕事をしており、ずっと逃げ切れると思っていたが、若い人たちから「翻訳者になりたい」と言われ返答に一瞬躊躇してしまい、きちんと話す機会が必要だと思った。実川さんとはインタビューが初対面。出版と実務は違う分野と思っていたが共通点が多く、翻訳者として意気投合した。分野の境界を取り払っていろいろ話すとよいと感じた。
インターネット普及前の翻訳作業
実川氏:1979年から英国に本部がある会社の広報部でニュースなどの翻訳業務にたずさわっていたことが、現在の仕事につながり、1991年に翻訳者とライターとして独立した。翻訳家の川本三郎氏から1冊文芸書を翻訳するチャンスを頂き、独立した年に幸運にも訳書を出版できた。それ以来、年に 1~4冊出版を続けている。25年間翻訳を続けてきて仕事のやり方にもさまざまな変化があった。その一つが「調査」である。翻訳は調べ物がキモなのだが、インターネットの普及前は国会図書館や地方の図書館に出向いて何日もかけなくてはならなかった。ときには翻訳作業よりも時間をかけたこともあった。だが、インターネットの普及後は「どのデータベースにあたればよいか」が自宅にいながらできるようになり、時間も労力も減った。調べ物が楽になった分、出版翻訳への参入者が増えたように思う。
井口氏:私もまだインターネットがない頃から翻訳をしていたが、ドイツ企業の業務改革といった案件など、背景がわからないと訳せないものばかりだったので調べ物はとても大変だった。インターネットで調べものが簡単になったが、それでよいかと疑問に思うことがある。わかったような気になっていないかと危惧している。
実川氏:調べるためには労力とコストがかかる。ネットでの情報に安易に頼るのではなく、著者が責任を持って書いている事典や書籍にあたることが重要だ。
井口氏:辞書にはお金をかけてほしい。これまで私は100~200万円ほど購入した。顧客にこの訳文でよいと保証するための当然の投資だと思う。
出版/実務の今と昔
実川氏:私が翻訳の仕事を始めた1990年代に、編集者は深い知識を持ち、自分の信条に沿って本を作っていた。翻訳書を担当する編集者は、翻訳とは何かを理解していた。編集者から厳しく至らないところを指摘されて涙したこともある。一方、今の編集者は会社を存続させるために致し方ないところはあるが、とにかく売れる本を出すことを第一に考えている人が多いように思う。だが、長く残っていく本を作ろうという気概のある編集者も少しずつ出てきているので、今後はそういう人たちと仕事をしていきたい。
井口氏:昔はマニュアルや仕様書を一式翻訳していた。図も豊富にあり具体的に理解できた。ドイツ語の技術文書は説明が詳細すぎて和訳に苦労するが、そこにおもしろさがあった。現在は部分翻訳が多く経験と知識でカバーしているので全体が見えるが、今から翻訳業に参入する人は不利な状況だと思う。
フリーランスとして大切なこと
実川氏:前述の本に登場する翻訳者全員が共通して「翻訳者として生き残るために必要」とあげたのが「勉強の継続」と「自律と自己管理」だ。加えて「自分にしかできないことを確立し、自身をブランド化することだ」という意見も出た。「何でもできる」という売り込みはあまり功を奏さないが、具体的に「これができる」とアピールすることが個人事業主である翻訳者にとってのブランド化につながる。
三種の神器
井口氏:勉強会(十人十色)、SNS、翻訳以外の世界が私の三種の神器。勉強会を始めたのは、他の翻訳者がどのように作業をしているかを知りたかったから。皆隠すことなく、ツールの便利な使い方などお互いを助け合った勉強会になっており、教える側も勉強になる。give & giveの精神。SNSは情報収集や仲間を見つけるのに必須。また、翻訳以外の世界があると気持ちが沈まず、異業種の友人からよい刺激が得られる。また外から自分の仕事を見つめることも重要。
実川氏:私の三種の神器は、辞書/事典、読書、人脈。辞書/事典は無料に頼っていてはいけない。また本を一定量読まないで出版翻訳に乗り出すのは、あまりに無謀だ。自分を売り込む分野で、古典も含めてある程度は読んでいないと仕事はできない。読書は体力がいるので、読書習慣は若いうち(40代前まで)につけておくとよい。人脈についてはgive & giveの関係を作る。紹介できる人を増やしたり、この分野はこの人に聞くといった関係性を構築したりすることが大切だ。駆出しのうちから、むしろ駆出しだからこそ、この3つを大切にしてほしい。
翻訳の楽しさ
実川氏:取材した翻訳者全員が「翻訳は本当に楽しい、天職だ」とおっしゃっていた。私の場合、原文を読んで浮かんだ「絵」を別の言語で表現する過程に翻訳の醍醐味を感じている。
井口氏:原文を読んで、頭の中で地図を描くのが楽しい。安全装置マニュアルの英日翻訳案件で、どう考えてもオペレーターがケガをしてしまうような手順があり、ドイツ語版を確認したところ英訳時の誤訳だとわかった。翻訳も人の安全に関わっているという誇りを持っている。
未来に向けて
実川氏:翻訳はその国の文化を測る物差しだと思うので、翻訳者こそ文化を支えていると考えることが、仕事をするうえで自分の使命感になっている。何かしらの使命感がないと、翻訳という仕事を続けていくのは難しい。使命感を持つことで、翻訳という仕事が未来につながっていくのではないか。
井口氏:翻訳業の未来というと必ず言及されるのが、AIが発達し、機械翻訳が人間の翻訳者を駆逐するのではないか、という意見である。機械翻訳を選ぶ顧客もいるだろうが、それでは困るという顧客も必ずいる。人間にしかできない翻訳に注力した方がよい。そのとき、人間の英智を集積した辞書は必ず味方になってくれる。機械翻訳で仕事を失う心配以前に仕事の一部消滅はめずらしくない。自動車のエンジン部品は600種類あるが電気自動車のモーター部品はわずか6個。つまり関連文書の翻訳も100分の1になる。そんなときこそ外の世界にアンテナを張ってどこに仕事があるか探すのが「ビジネス」だ。そのうえで、「お金のためではなく自分がしたいと思う翻訳をしたい」という希望を心に秘めて仕事をしている。
質疑応答
Q1. 翻訳会社にも同じような熱意を持ってもらうには?
A1. 翻訳者も請負業者だと卑屈にならず、自分の主張ははっきり通したほうがいい。通せるだけの自信を持っていいのではないか。
Q2. 自費出版の経験はあるか?
A2. ない。否定するわけではないが、訳書の出版は著者や編集者とのプロの共同作業であると思っているので、自分はその中でやりたいと思っている。
Q3. 新書をおもしろいと判断するには、その分野の古典(定番)は読んだ方がよいか?
A3. 評価が定まっている本を読んでおくことで、新刊の魅力や今の時代に必要なことがどう書かれているかが見えてくる。また、著者がその分野でどのような位置付けで本を出版したのか、その意見はどう評価されているかなどバックグラウンドを調べることも重要。
Q4. 編集者の考え方が「売れる」から「長く読まれる」本にシフトしているという話があったが、まだ前者の考えが主流なのではないか?また、後者にシフトしているとしても、分野が偏るのではないか?翻訳者は何を追えばよいのか?
A4. 長く残る本を売らなければ、出版社も生き残れないのではないか。この分野が流行りそうだと追いかけて本を作っていると、結局は消耗品としての本しか出せなくなってしまう。私自身は自分の得意分野を突き詰めることが大事だと思っている。得意分野をどのように売れるものにできるか、ということに関してはビジネスの目を養う必要があるとも思う。
Q5. リーディング後のレジュメの分量はどのくらいか?
A5. A4一枚に概要とあらすじをまとめることにしている。最近では自分自身のコメントとして、著者と著書の評価、日本での対象読者、日本で出版した場合のページ数を、A4二枚くらいにまとめて付け足すこともある。