[リンギストの仕事]第2回:澤井真佑子さん ― 開発現場を巻き込んでローカライズ品質を高める
産業翻訳では、実翻訳作業に加えてさまざまな言語関連の仕事が発生する。たとえば言語品質保証、用語管理、TMやMTの整備などだ。本連載ではインタビューを通じ、従来の翻訳者像に留まらない新たな言語専門家像を「リンギスト」という名前で提示する。
第2回目は、サイボウズ株式会社開発本部のテクニカルコミュニケーションチームに所属する澤井真佑子さんに聞いた。同社は業務アプリケーション開発プラットフォーム「kintone」や、「サイボウズ Office」、「Garoon」といったグループウェアを提供するソフトウェア企業で、海外展開にも力を入れている。
(聞き手/執筆:西野竜太郎)
澤井真佑子
サイボウズ株式会社開発本部テクニカルコミュニケーションチーム所属。ソフトウェアのUIやヘルプサイトの多言語化ディレクションを担当。現在、ストラスブール大学のオンラインマスターでコンテンツ設計やローカリゼーションの手法などを学んでいる。
今している仕事
原文制作から翻訳後処理までを見る幅広さ
―― 現在の仕事について教えてください。
【澤井】今は開発本部のテクニカルライティングの部署にいます。UIやドキュメントなどのライティングをする役割で入社しました。ただし多言語化のニーズが高まっていて、現在では多言語化関連の仕事が多くなっています。基本的に日本語で書かれた情報を英語や中国語(繁体字と簡体字)に翻訳するので、そのディレクションをしています。
まず、原文を作る際には前処理(校正)をしておくと効率的に翻訳できるので、原文を作成する段階で間違いが修正されるよう、ルールを定義し、原文を校正しています。さらにCATツールでプロジェクトを作ったり、翻訳時に参考にしてもらう情報を開発チームから集めて翻訳者に提供したりしています。社内翻訳者や翻訳会社から訳文が上がって来たあとは、訳文の後処理もしています。たとえば、ドキュメント内にあるリンクを言語に応じて変えたりする作業です。原文の校正や、翻訳後の後処理については、定型化できるものは自動化を進めています。
さらに翻訳に直接かかわらない部分の周辺業務もしています。用語集やTMの整備ですね。それから翻訳や用語に関連するツールの選定作業です。また私自身は関わっていませんが、スタイルガイドの作成や、機械翻訳エンジンに学習させたり、ポストエディットしたりといったこともチーム内ではしています。
―― かなり幅広い仕事をされていますね。
【澤井】そうですね。仕事を進めるにつれて「ああ、ここはこうしなきゃいけない」と気づくことがあります。それでどんどん範囲が拡大していった感じです。
これまでしてきた仕事
―― これまでもテクニカルライティングや翻訳を専門にされていたのですか?
【澤井】もともとテクニカルライティングやローカライズのバックグラウンドがあったわけではありません。大学卒業後はNTTコミュニケーションズに入社し、法人向けサービスの広報をしていました。お客様の事例を作ったりイベントに出展したりするような仕事です。その後、育児期間の7年くらいは主婦をしていました。子供が小学校に入ったあと、大学発のAIベンチャー企業で働くようになりました。そのときにマニュアルを書くこともしていましたが、きっちりした文書を作る仕事は、2018年にサイボウズに入社してからですね。
サイボウズに入社後はまず、ヘルプサイトの制作基盤の刷新を担当しました。それまで使っていたシステムは翻訳に適しておらず、翻訳や、翻訳結果の公開に手間がかかり、製品のリリースからかなり遅れて翻訳版のヘルプサイトを公開していました。リリースサイクルを高速化していく上で、翻訳プロセス全体を効率化し、素早い翻訳を継続的に提供する仕組みが必要になっていました。
刷新後のシステムでは、ヘルプコンテンツを翻訳に適したテキスト形式で制作するようにし、翻訳前にある程度自動で文章校正する仕組みも導入しました。チェックするのは、用語の揺れだったり、ひらがなと漢字の使い分けだったりといったものです。
<補足>
サイボウズにおける翻訳管理システムは、仲田尚央/山本絵理・著「ヘルプサイトの作り方」(2019年、技術評論社)で詳しく説明されている。また自社開発の用語管理ツールはこちらの記事で紹介されている。
これから何をしたいか
製品の海外展開を支える楽しさと難しさ
―― 今後どのような仕事をしたいと考えていますか?
【澤井】日本におけるローカライズの仕事は、海外製品を日本語化するケースが多いと思います。しかしサイボウズではその逆ができる点が面白いと感じています。国産ソフトウェアの海外展開を、言語面で支えるということですね。
サイボウズではこれまで、翻訳しやすい文章だったり用語の管理だったりといったところまでは意識できていなかった面がありました。しかし本格的に海外で販売し、言語の追加も重なると、そういったことに取り組む必要が出てきます。そのためには、上流からローカライズを意識してもらうようフィードバックする活動が必要になると感じています。
―― 下流で翻訳するだけだと、品質を上げきれないですからね。
【澤井】はい、「原文を分かりやすくしてください」みたいな話になりますね。ローカライズを意識して作ることは絶対に必要です。ただ、たとえば用語集を整備するとなると、開発チームを巻き込んである程度コストをかけて取り組む必要がありますが、用語の揺れのようなものは、問題として開発チームが実感しづらいので、優先して取り組むべき対象として見てもらいにくい部分があります。そういったところに難しさを感じています。
いま学んでいること
原文制作から翻訳まで一貫して学べる海外オンラインコース
―― 現在、オンラインでフランス・ストラスブール大学の修士課程(英語)で勉強もされていると聞きました。
【澤井】去年、ヘルプサイトを繁体字中国語に翻訳してもらったのですが、サイボウズが提供していたUI文言に訳揺れが多く含まれていたことも原因となり、上がってきた訳文の修正にかなりの時間がかかった経験がありました。翻訳を依頼する前にあらかじめ準備しておかなければならないことが多いと気づいたのです。「こういう知識はどこかにまとまっているはずだ……」と感じていたときに、ストラスブール大学の「テクニカルコミュニケーション&ローカリゼーション」コースがあると知りました。これはまさに部署で取り組まなければならない内容だと思い、入学しました。
―― どのような内容を学んでいらっしゃるのでしょうか?
【澤井】講義は1月の末に始まったばかりですが、たとえばCATツールの基本的な概念を学びました。ほかには、用語管理には Concept-based と Term-based の2つがあり、Concept-based で作ったほうが後々破綻しにくい、といった点です。ちょうど部署で用語管理システムを導入しようと思っていたところだったので、エキスパートである先生に直接質問できて参考になりました。同級生はほとんどがテクニカルライターや翻訳者なので、他の人が先生にする質問を聞くのも参考になります。
個人的に期待しているのは、プレーンランゲージの授業です。なるべく解釈が分かれないような表現で原文を書く方法ですね。
―― カリキュラムを見て面白いと感じたのは、原文段階から翻訳段階までの一貫性を考慮している点ですね。最初に原文を作る段階できちんとしておかないと、翻訳を含めた全体の品質が上がりません。
【澤井】それは私も感じます。プログラムコーディネーターの先生も意識されている印象を受けました。高い品質でローカライズするには、全体の中でどのような仕事が発生するのか、関わる全員が知っておくのが理想なのだと思います。
<補足>
ストラスブール大学のコース:https://mastertcloc.unistra.fr/
リンギストに求められること
コストと品質のバランス、全体プロセスの理解
―― 先ほど出てきたような用語管理は「翻訳者」から見ると周辺業務やおまけ業務のような扱いにされがちです。しかし用語管理は重要であり、「リンギスト」のような専門職名があった方が社会的に重要さが伝わるのではないでしょうか。
【澤井】そうですね。どうしても原文作成と翻訳という”2大プロセス”に光が当たりがちですが、それだけでは成り立たなくて、その周辺でも専門知識を必要とする仕事が結構あるなと感じています。
私自身はプロジェクトマネージャーに近い立場かと思いますが、TMを管理するとか、用語の揺れを洗い出すとかいった作業もかなり含まれています。ですから「この仕事の名前は何だろう?」と考えたときに、やはりリンギストという名前がふさわしいと感じる部分はあります。
―― これからリンギストが身に付けるべきは何でしょう?
事業会社という立場からお話すると、まず自社製品やターゲットの理解です。ほかには、翻訳前に求められる作業や、機械翻訳やCATツールについても当然知っておく必要があります。あとは用語集の整備、翻訳しやすいコンテンツの作り方、品質評価の方法などですね。そういった知識をひと通り理解した上で、コストと品質のバランスを取りながら状況に適した方法を選択できる人が求められていると思います。
また、最も必要になるのは、製品開発チームや原文のコンテンツを書くチームといった関係者を巻き込んで、求められるアウトプットの品質についての認識を合わせ、用語集の整備や使用など必要なことがらに協力して取り組んでいくことだと思います。
(インタビュー日:2021年3月24日)