私の一冊『エデンの東』
第11回:翻訳会社代表 梅田 智弘 さん
私の一冊は、ジェームズ・ディーン主演の映画でも有名な、ジョン・スタインベックの『エデンの東』(土屋政雄訳、早川書房)です。舞台はアメリカ西部、旧約聖書のカインとアベルの物語を下敷きに、2つの家族の数世代を描いた叙事詩です。小説として読み応えがあり、土屋政雄さんによる名訳も楽しめるという、ただでさえおすすめの一冊なのですが、敢えてJTFジャーナルのコラムでご紹介したいと思ったのは、この作品には主要な登場人物たちが翻訳について深く語り合うシーンがあるからです。
作中で議論の的となっているのは、旧約聖書の創世記第4章7節に出てくる「ティムシェル」(ヘブライ語の「timshel」)という言葉。神がカインに向かって罪との向き合い方について語る場面の言葉です。
『エデンの東』ではこう議論されています。この「ティムシェル」という言葉は、欽定訳では「汝は彼を(罪を)治めん」と「約束」の意味合いで訳されているが、米国標準訳では「汝は彼を(罪を)治めよ」と「命令」の形になっている。しかしその訳は正しいのだろうか、本当の意味は異なるのではないか……。この議論の末に示されたのは人間讃歌の力強い訳であり、それがこの作品全体に通底する重要なキーワードとなっていきます。それがどういう訳なのかは、ぜひ本書を読んでご確認ください。
欽定訳: thou shalt rule over him
米国標準訳: Do thou rule over him
(いずれも原典の『East of Eden』から引用)
ちなみにこの言葉、日本語の一般的な聖書ではどう訳されているかというと、日本聖書協会の新共同訳(1987年)では「お前はそれを(罪を)支配せねばならない」、聖書協会共同訳(2018年)では「あなたはそれを(罪を)治めなければならない」。
たった一語ですが、これほど解釈がわかれ、さまざまな訳文が生まれるところが翻訳の醍醐味でもありますね。『エデンの東』、秋の夜長にぜひどうぞ!
◎執筆者プロフィール
梅田智弘(うめだともひろ)
株式会社テクノ・プロ・ジャパン代表取締役。翻訳会社社員、10年近くに及ぶフリーランスの英日翻訳者を経て現職。さまざまなロールでの経験を武器に、社内外問わず働きやすいチーム作りに奮闘。30代半ばにして両親の介護が始まり、社長業との両立に苦労しているが、その経験を基に、仕事と生活の垣根を越えた「セーフティネットとしての翻訳会社」を実現したいと考えている。
https://www.techno-pro.jp
★次回は、文芸翻訳家の大島聡子さんに「私の一冊」を紹介していただきます。