日本翻訳連盟(JTF)

私の一冊『All She Was Worth』

第14回:英日翻訳者 渡辺淳子さん

『All She Was Worth』Miyuki Miyabe著、Alfred Birnbaum訳、1996年

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ためになる本の紹介は先輩諸氏にお任せするとして、ちょっと趣向を変えて個人的に思い入れのある一冊を選んでみました。取るに足らないむかし話におつきあいいただけたらうれしいです。

『All She Was Worth』。宮部みゆき氏の『火車』の英語版。1990年代から日本で社会問題となったカードローンによる自己破産などの消費者金融問題をテーマに、華やかさとはべつの顔をもつ東京を描いた初期のミステリーです。内容をくわしく紹介するまでもないポピュラーな代表作といえるでしょう。

この英語版を見つけたのは、当時暮らしていたアメリカのオハイオ州の本屋でした。古典や文学作品の翻訳本はわりと手に入ったのですが、いま話題の、それもエンターテイメント小説の日本人作家の名を郊外の小さなまちで目にするなど、そのころはほんとうにめずらしかったのです。ろくに中身も見ずにレジへと走り、はやる心を抑えて車の中でページをめくりはじめ、ああこれは『火車』だとわかったときの気持ちといったら! あの高揚感はいまでもはっきりと覚えています。

あれから20年。もしあのとき、〈ボーダーズ〉の薄暗い書架からこの本がわたしを手招きしてくれなかったら、翻訳の仕事に興味をもつことはなかったかもしれない……そんな考えはいささか感傷的でしょうか。でも、この本がきっかけとなって洋書を読むようになり、それがいまのわたしへとつながっているのはまちがいないのです。

◎執筆者プロフィール

渡辺淳子(わたなべじゅんこ)
英日翻訳者。医療。翻訳者歴16年。アメリカ在住中にフリーランスで翻訳をはじめ、2011年の帰国後5年間の医療機器メーカー企業勤務を経て2016年からふたたびフリーランスに。当初の夢を叶えるべく、2022年春から文芸翻訳を勉強中。

★次回は、日英・英日翻訳者の大塚英さんに「私の一冊」を紹介していただきます。

←私の一冊『The Long Goodbye』

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