[イベント報告]森口理恵さんの実践医薬翻訳~課題を翻訳してPC前に集合!
2020年度第4回JTF関西セミナー報告
- テーマ:森口理恵さんの実践医薬翻訳 ~課題を翻訳してPC前に集合!~
- 日時:2021年1月26日(火)14:00~16:00
- 開催:Zoomウェビナー
- 報告者:伊藤 祥(翻訳者/ライター)
登壇者
森口 理恵(モリグチ リエ)
R&Aメディカル代表
京都薬科大学薬学部薬学科卒業。香料研究室勤務、データ検索担当者(サーチャー)、医薬系翻訳会社のコーディネータ兼社内翻訳者などを経て独立、以来20年あまり医学論文や製薬・医療機器関連の資料などの英日・日英翻訳を手がける。翻訳教育機関での翻訳指導やテキスト執筆など、翻訳者教育にも携わる。著書に、医薬業界に特有の基本表現を平易な表現で説明した『まずはこれから!医薬翻訳者のための英語』(イカロス出版)がある。
本セミナーでは、永年医学論文や製薬・医療機器関連の資料などの英日・日英翻訳ならびに、翻訳教育機関での翻訳指導やテキスト執筆など、翻訳者教育にも携ってこられた森口理恵氏から、翻訳学習者・翻訳者むけに、事前課題をもとに、医薬翻訳で見落としがちな個所や取り違えそうな部分に解説を加えていただき、より正確な翻訳文作成のコツを伝授いただいた。
今回の課題文は米国疾病対策センター(CDC)の論文誌「Emerging Infectious Diseases」の掲載論文である感染症の短い報告書「High Proportion of Asymptomatic SARS-CoV-2 Infections in 9 Long-Term Care Facilities, Pasadena, California, USA, April 2020」である。現在関心の高いテーマCOVID-19関連の報告書である。
お話しされた訳出のポイントには、英語をしっかり読むこと。英英辞書の活用、英語検索でヒントを探ること。原文と参考文献の情報をよく読んで活用すること。情報の見方を勉強すること。ネット検索などを活用して対象領域の常識を把握すること。原文で理解した内容を正しく伝えられるよう、訳文の日本語の情報伝達方法を研究することなどがあった。本レポートではダイジェストでご紹介する。
英語をしっかり読む
論⽂は、Title、Abstract(structured/unstructured)、Introduction、Methods、Results、Discussion、Conclusion、Referencesという部分で構成されている。
Abstract(抄録)は約300ワードの、背景、方法、結果、結論などがかかれたミニ論文ともいうべき部分で、PubMedなどの論⽂データベースに収録される部分である。課題文では、第一文は論文の方法と結果、第2文もConclusionの一部と同じ内容で構成されている。
Introductionは、どのような必要性があって、著者が試験を行ったのかを説明する文章である。
Referencesは翻訳者の情報源である。参考文献は論文を書くために参照した既知の知見などで、番号が付けられ論文の該当部分に示されている。
原文と参考文献の情報を活用する
Referencesには参考文献の書誌事項が掲載されている。書誌事項とは著者名、表題、掲載誌、発表年、号数/巻数、ページ数などで、これだけ読んでも概要がわかるようにできているし、電子論文のURLが掲載されている場合もある。
原文がはしょられすぎてわからない場合、知識不足で分かりにくい場合などは、参考文献を参照すればわかる場合もある。少なくとも抄録はどんな論文でも無料で読むことができるし、無料で閲覧できる論文もあるので、それを読めば原文の言わんとすることが分かることがある。時間とやる気があれば、調査できる時代になっているので、その体力を持ちたい。何が言いたいのか、ストーリーとして分かるような読解力をつけてほしい。
英語検索でヒントを探る
例文:
Long-term care facilities (LTCFs) in the United States, including skilled nursing facilities (SNFs) and assisted living facilities (ALFs),
高齢者向けの介護施設の略語の例
- LTCFs = Long Term care facilities=長期療養施設、長期ケア施設
- SNFs = Skilled nursing facilities=専門的看護施設、高度看護施設
- ALFs = Assisted living facilities=介護施設、アシステッド・リビング施設
これらの略語は、国によって分類が異なるため、表記は初出部分で、訳語・フルスペル・略語のセットを提示する必要がある。例えば、「⻑期療養施設(long-term care facilities, LTCFs)」。
日本語の読み手には、略称だけは通じないので、略称だけで標記してしまうと、その後の文章の内容が頭に入らなくなってしまう。日本の類似の単語を探し、同じ名称は当てられないにしても日本人が読んで分かるものにする。
検索の手法としては、LTCFであれば、[LTCF 長期]、[長期 施設 LTCF]、[長期 施設 “long time care”]のように入力すればひとまとめに調べられる。
原文の略語部分を日本語の略語で訳すかはケースバイケース。正式名称と略称のうちどちらが社会に浸透しているか、お客様の使い方も考慮して決定する。PCR検査(Polymerase chain reaction=ポリメラーゼ連鎖反応)、mRNA=メッセンジャーRNA(RNA=リボ核酸)、WHO=世界保健機関、MHLW=厚生労働省・厚労省、MI=心筋梗塞、DM=糖尿病、など。
英英辞書を使う&専門領域の常識をネット検索で把握する
例文:
Extensive COVID-19–specific outreach and education efforts with skilled nursing facilities by PPHD staff began in late January 2020.
outreachを英英辞典で調べると、「困っている人にこちらからアプローチしていこう」という意味があることがわかる。英英辞典は外国人向けに平易な表現で書いてあるので活用するべきだ。また、カタカナ表記の「アウトリーチ」でネット検索すると、厚労省の文書に「支援を必要とする生活困窮者が、相談に訪れるのを待つのではなく、そのものに対し相談支援が届くようにするという、アウトリーチの観点から」という文言があり、現場で使われている言葉からその意味を知ることができる。
次にeducationという言葉の一般的な訳語は「教育」であるが、これをプロの大人に対して使えるだろうかと考えてほしい。類義語の「啓発」であれば、比較的上から目線という印象が少なく、使いやすい。東京都や内閣府などでも、「アウトリーチ(型)の啓発活動」というように使われており、方向性もあっている。このように探せば使えそうだというものが見つかる。これは普段の翻訳で活用して欲しいテクニックである。
withは「一緒に」でよいだろうか? 「outreach and education efforts with」で検索をして意味が理解できるフレーズが出てくるまで読み進めると、「一緒に」ではなく「対象に」という意味がでてくる。withはLongmanでは10番目に「used when talking about an action or activity to say which other person, group, or country is involved」とある。
訳語選択は、日本語の語彙の蓄積と英語の読解力の組み合わせから生まれるので、地道に探していく姿勢が必要だ。
その他の訳語選択の主な注意点
数をきちんと訳す
「a report」、「a resident」は「一例」、「一施設」と、きちんと1を訳してほしい。「>1」は「複数」と訳せる。複数を示す方法はいくらでもある。日英でも日本語が不明確なときは苦労する部分であるが、英日でも無視せずきちんと訳してほしい。歳、週などは状況を考えながら訳す必要があり、機械的には訳せないので要注意。
決まり文句で訳す
- This analysis was restricted to facilities with >3 linked cases.
「今回の解析は~を対象として行った」と論文の一般的な表現で訳せば、読者にすっと入る。
用語は読みやすいと判断した語で統一して訳す
万一クライアントが別の訳語を指定した場合でもすぐに全文置換することができる。
日本語として通る用語選択をする
- The ability of SARS-CoV-2 to spread rapidly among residents and staff in congregate settings poses a major infection control challenge.
abilityはウイルスに「能力」があると表現するのは不自然なため、「性質」とする。「in congregate settings」は「密」のこと。
日本語での情報伝達方法を研究する
英日翻訳では語順を変え後ろから訳し上げることが多いが、情報の単位を把握して、その単位が出される順序を極力保って訳す。読み手の頭の「キャッシュ」を意識するとよりわかりやすい訳となる。前の情報が終わらない段階で次の情報を入れられたら読み手の頭はあふれてしまう。
英日翻訳の要領で、最初から文尾をみて「訳し上げ」的に読んでしまわないこと。まず原文を文頭から読み進め、主語、動詞、目的語を把握し、ここは文章の中核要素、ここは情報を付け足し部分であるなどと構造を把握しながら読み進める。情報が出る順序を保つためにも重要な読み方。これを怠って文尾から「訳し上げ」をしてしまうと、情報が出る順序が原文を反映しなくなり、読みづらい訳文になってしまう。
補足する手持ちの接着剤となる語彙を増やしたい(規模、状況、所見、結果、内容など)。例えば「moderately affected facilities」で、感染の「規模」が中等度。ここでの「規模」は、直接対応する原文の単語はないが、入れることによって日本語の文章の収まりがよくなるが原文の意味を変えるものではないため、接着剤的な効果を意識して加えている。このような「接着剤」として使える言葉は何種類もあるので、普段から日本語を読むときに意識してストックを増やしておくとよい。
翻訳で一番重要なことは、正しい情報を伝えること。著者が原文全体で何を言っていて何を言っていないのか明確に理解し、言っていることについては接着剤になるような言葉を適宜使って自然な日本語になるよう表現してもいいが、言ってないことを入れてはいけない。それが翻訳の難しいところでも面白いところでもある。翻訳はライティングではないことに注意する。
同様に、原文が説明不足でそのまま訳しては意味が通じにくい箇所についても、本文や表を確認して明白な内容であれば、言葉を若干補ってもよい。一方、日本語は既出の内容をくどくど言わない言語なので、特別の意味がなければ重複表現を削ってもよい。
最後に
表現は柔軟に訳していいが誤訳にならないようにする。論文は図表を見れば分かるように書いてあるので、図表を確認しながら訳せば大きな誤訳は防げる。日常業務で論文を読み慣れている人は、欲しい情報を素早く見つけて理解する能力に長けているが、しっかり読んで過不足なく訳す英語力では求められるものが異なる。著者が何を言って何を言ってないのかの弁別が必要だ。
自分では理解が及ばない文章を訳すときに、そのまま訳せば内容がわかる人ならわかるのではないかと思ってしまいがちだが、単に規則に従って訳すのでは他人が読んでわかる文章にはならない。著者の述べていることを十分理解しなければ、翻訳は伝わる言葉にならない。医薬翻訳の最終読者は、論文を読み慣れた人であり、内容に応じた表現でなかったり、科学的な物の考え方が反映されていない箇所があったりすると他の部分も信用されない。仕事を引き受けたのであればきちんと調べ責任をもって理解してほしい。
今回は和訳であるが、英訳も同じことがあてはまる。英訳ではチェッカーが英語しか見ない場合、文法は修正されるが、著者の言いたいことが過不足なく訳されているかどうかは翻訳者にしかわからない。翻訳者の果たす役割は大きいことを覚えておいてほしい。
質疑応答
Q. 課題文の「1 in 4」や「1 in 2」をそれぞれパーセンテージにするという訳し⽅はどうか。
A. パーセンテージ表記はお奨めしない。原文と訳文で数字と同じ表記であれば、英語と⽇本語を合わせて読む⼈(チェッカー、お客様など)に余計な負担をかけないので、特別な理由やお客様の指⽰がある場合でなければ、原文の数字を使う。
Q. 課題の中に出てきた「support」(動詞)を「妥当性が示される」「妥当性が裏付けられる」などと訳したくなることが多いが、補⾜しすぎだろうか。
A. よいと思う。その通りの意味である。
Q. 医薬翻訳に携わりたい場合、薬学を学校で学ぶ必要はあるか?
A. 薬学(や医学、⽣物学などの⽣物分野の学問)を学んだ⼈の訳⽂は、専⾨性の⾼い訳⽂で、解釈や表現に筋が通っている。しかし、英語⼒は別途必要なもので、薬学を出た⼈全員が翻訳ができるわけでははい。また、薬学部を卒業しなければ翻訳ができないということはない。また「医薬翻訳」は幅が広く、薬学などの化学・⽣物のバックグランドがなければ読み解けない案件もあれば、治験契約書など英語⼒に秀でた⽅々が⼒を発揮しやすい案件もある。
今から学び直したいなら、⾼校の⽣物学の教科書や「好きになる」シリーズ(免疫学、分⼦⽣物学等々)を読み、わかる範囲から理解を進めていき、「MRテキスト」(製薬会社でのMR養成に使う教科書。https://www.mre.or.jp/info/mr_text.html)で学習してほしい。統計学の基本も勉強しておくとよい(おすすめサイト:http://www.stat.go.jp/teacher/index.html)。