日本翻訳連盟(JTF)

翻訳フォーラム大オフ2012シンポジウム報告 「翻訳者の頭ん中 翻訳中の思考プロセス」

翻訳フォーラム大オフ2012シンポジウム報告
翻訳者の頭ん中 翻訳中の思考プロセス

裏地良子
フリーランス翻訳者


 



名称●翻訳フォーラム大オフ2012シンポジウム
期間●2012年6月15日(金)13:00~18:00
場所●GMOスピード翻訳株式会社会議室(渋谷セルリアンタワー)
テーマ●「翻訳者の頭ん中 翻訳中の思考プロセス」
講師●Sakino(高橋さきの)氏、miko(深井裕美子)氏、baldhatter(高橋聡)氏、Buckeye(井口耕二)氏
主催●翻訳フォーラム
詳細●http://home.att.ne.jp/blue/onback/honyakuforum/honyakuforumindex.html
報告●AngelA(裏地良子) フリーランス翻訳者

 



 東北観光博の外国語サイトが誤訳の多さから一時閉鎖されたことは記憶に新しい。このような誤訳を発生させないために、経験豊富な翻訳者は頭の中でどのような手順をふんでいるのか。4人の講師が登壇したが「翻訳者として自分の思考プロセスを意識し、高品質な翻訳とは何かを考え、発信していこう」というメッセージは一貫していたように思う。
 
 『通訳翻訳ジャーナル』(イカロス出版)の連載「翻訳者のための作戦会議室」と連動した今回のシンポジウム。会場に足を運べたのは70名ほどだったが、Twitter中継やUstream中継もおこなわれ、Ustreamに関しては世界各国から75~100名が視聴したという。GMOスピード翻訳株式会社様ご提供の会議室は明るく開放的で、参加者たちは休憩時間も旧交を温めたり、新しく名刺交換したりと忙しかったようだ。

翻訳でメシが食えるところを目指しましょう

 まず、シンポジウムの位置づけについてBuckeye氏からプレゼンテーションがあった。 昨今の翻訳市場は低価格・低品質になりつつあると言われる。しかし実際は、多数の中価格・中品質と少数の高価格・高品質で構成された分布が、全体的に少し低価格に流れたと言える。翻訳者として、市場のどの分布を目指すべきかと言えば、高価格・高品質であろう。高価格市場は、その専門性の高さゆえ市場として小さく見えるが、一個人が参入を考えるにあたっては十分な大きさと言える。また、中価格・中品質と高価格・高品質の間は狭き門になっているが、力のある人がしっかり積み重ねてゆけば到達できる。

 高価格・高品質の分布を目指す最大のメリットは、単価の高さにある。フルタイムなら年間売上800万円くらいで「メシが食える」レベルといえる。自分の単価と作業時速を思い浮かべて欲しい。会社員の時間単価は約5000円。それくらいの時間単価が平均で出せる翻訳者は少ない。しかし、高品質・高価格の分布を目指せばクリアできる目標なのだ。

 高品質・高価格を目指すにはどうしたらよいかを考えるのが本シンポジウムである。

翻訳とは何か

 基調講演では、Sakino氏が「なぜ『翻訳とは何か』を論ずる必要があるか」について話を進めるとともに、miko氏も登壇し基本に立ち返る重要性を説いた。

 まずなぜ「翻訳とは何か」という壮大な命題を論じる必要があるのか。

 低価格・低品質な訳文が出回っていることも手伝って、低品質な翻訳で納得してしまうクライアントもいる。すばらしい翻訳ほど、どういったプロセスでできあがったのかが見えにくいので、良訳の価値を説明することはなかなか難しい。だが、翻訳とは何か、翻訳の思考プロセスはどんなものなのかを翻訳者が意識し、クライアントに伝えていくことが今求められているのではないか。

miko氏によれば、翻訳とは「準備7割」である。いきなりPCに向かって訳し始めるのではなく、まず1.辞書等の環境を整え、2.作業量、クライアント、原文、ターゲットオーディエンスについて知り、3.下読みをしてポイントを押さえ、4.書き出す前に類似文書を探して観察するのが重要になる。こうして入念に下準備するからこそ、miko氏は訳文を1回でほぼ完成形までもっていけるという。

 Sakino氏によれば、プロは1秒に1万回くらい原文と訳文を行き来して思考できるようになるので、準備と翻訳作業の境目はなくなってくるという。

 まず、プロは目に文字情報を入れると同時に、脳内で自分に対する原文の読み聞かせをしているという。つまり、「視る」と「聴く」を同時にやっている。このスキルを磨くのに有効なのがディクテーションやシャドウイングだ。聴き取ったことをメモにまとめるとさらによい。練習の素材はニュースでも何でもよいが、母語でまずおこなうことが大事だ。文字列と音を自在に往き来できるようにしておくと、翻訳の精度と速度に差が出てくるだろう。

 そしてプロは、文脈のみならず構成にも目が行き届いている。文脈が背景情報ならば、構成とは1.物事を読み手に差し出す順序、2.論理の流れ、3.読み手の目や耳の位置、のことである。最終的に訳文中で選んだ表現以外にとりえた表現は何か、原文執筆者はなぜその表現を選んだのかまで考えを至らせて初めて、構成を読み取れたことになる。こうして翻訳者の頭の中の引き出しが増えてゆくのである。

 さらに、プロは作業中の視野を広くとる努力を怠らない。翻訳作業中、上書き書き込みだけで訳文を仕上げると一文単位にしか目の行き届かない「ぶちぶち訳」ができてしまう。そこで最低でも段落単位で目を配れるよう、原文と訳文を交互に配置した「シマシマ翻訳」をSakino氏は勧めている。

 最後の質疑応答において、「ある程度経験を重ねて、準備7割が完了している人は、それ以上どうやって能力を上げればよいか」との質問も出たが、エージェントでもあるmiko氏によると「準備7割が完璧な翻訳者はごく一握りしかいない」というのが現状のようだ。

翻訳メモリの功罪

 次にbaldhatter氏が、翻訳メモリを利用するにあたって留意すべき点について話された。TradosのことをTwitter用語で「虎」と称することに触れ、虎になるのではなく、虎を駆る側になろうというスタンスで話が進められた。

 現実には、翻訳メモリ導入によって翻訳者の効率が特にあがるわけではないし、また他人とメモリを共有してうまくいくことは稀である。ただ、Tradosにも「功」は多々あり、信頼できる既訳を正しく使えば訳文の再利用や語句の統一に一役買ってくれる。

 Tradosの一番の「罪」は、思考停止をまねき、ぶちぶち訳に陥り、結果、翻訳者として手が荒れることにある。baldhatter氏自身、手が荒れるのではないかという恐怖と常に戦っているという。

そこでbaldhatter氏がとっている対策は、翻訳の作業リズムを大切にし、段落単位まで視野を広めてTradosを使うというものだ。デモンストレーションを見ると、リズムを保つためにTradosの利用頻度を案件によって変え、マクロを活用して辞書引きなどをワンクリック操作で済ませ、入力には「かな入力」を使っていた。そして視野を広げるために、ウインドウ縦幅を広くとって最低限前後の段落まで表示するなどの工夫もみられた。翻訳メモリを使いこなすには、いかに周辺ツールを使いこなすかが重要なのだ。

ツールに使われないためのツールの使い方

 最後にBuckeye氏が、普段どうやって翻訳作業を進めているかを、キャプチャリング動画をつかって説明した。

 Buckeye氏の作業環境はトリプルモニターである。中央に訳文、左にブラウザと原文、右に辞書系(Jammingふたつ、DDWin、類語.jpのシソーラス、KwicFinderなど)を展開して使う。作業ミスを防ぎ効率化をはかるために、ご自身作のSimplyTermsで用語を置換したり、秀丸マクロを多用したりしている。

 作業スタイルは、1.訳す前に原文は下読みせず、2.上書き書き込み形式で入力していくというものだ。下読みしないのは、ロジカルに書かれている原文を扱うことが多いためでもあるが、初見のほうが読み手として振り回される感覚を強く訳文に反映できるからだという。また、上書き書き込み形式ではあるが、前後の視野を広くとり、一段落訳したら文単位、段落単位で見直しを重ねることで、一文一文にとらわれすぎないように気をつけているという。

 動画を再生しつつ、随時質問を受け付けるという形でプレゼンが進められたこともあり、会場からは活発に発言があった。「訳文選択で迷ったら、頭で考えていないでまず書いてみるのか」という質問には、「頭の中で訳文を巡らせて取捨選択した後、可能性のあるものを書き出し、目の前に置いて読んでみる。それでも決まらなかったら、続きを訳してみてから決める」との回答だった。

翻訳業界のマイルストーン

 今回参加させていただいたシンポジウムは、翻訳業界のひとつのマイルストーンだと言える。話を聞いて終わりではなく、ここから自分がどうするかが重要だからだ。普段孤独な作業の多い翻訳者にとって、オフ会は業界内のつながりを感じられる絶好の機会である。このシンポジウムの意義は、参加者各位の立ち位置と、その目指すところの確認にもあったのではないか。自己研鑽のため、さらに業界全体まで視野にいれて動くために、自分の頭の中で何が起こっているのかを常日頃意識し、可能な限り情報を発信、交換するよう心がけようと思う。
 

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