日本翻訳連盟(JTF)

翻訳は深い――ことばの共通基盤まで掘って、そこに土台を築く

2015年度第6回JTF翻訳セミナー報告
翻訳は深い――ことばの共通基盤まで掘って、そこに土台を築く

高橋 さきの


日英・英日翻訳者(特許・科学系書籍)、国立大学非常勤講師。1984年に東京大学農学系研究科修士課程を修了後、特許事務所を経て1987年独立(2000年まで嘱託)。著書に『プロが教える技術翻訳のスキル』(共著、講談社)、『[新通史]日本の科学技術 第3巻』(共著、原書房)、『リーディングス戦後日本の思想水脈』(共著、岩波書店、6月刊行予定)など。訳書にシルヴィア『できる研究者の論文生産術―どうすれば「たくさん」書けるのか』(講談社)、ハラウェイ『猿と女とサイボーグ―自然の再発明』『犬と人が出会うとき―異種協働のポリティクス』(青土社)など。翻訳フォーラム共同主宰。 

 

井口 耕二


子どもが生まれた際、子育てに必要な時間のやりくりがつけられるようにと大手石油会社を退職し、技術・実務翻訳者として独立。最近はノンフィクション書籍の翻訳者としても知られる(『スティーブ・ジョブズ I・II』(講談社)、『沈みゆく帝国』『リーン・スタートアップ』(日経BP)など)。高品質な翻訳をめざして日々精進するかたわら、翻訳作業を支援するツールを自作・公開するなど、人とPCの最適な協力関係を模索している。また、翻訳者が幸せになれる業界の構築が必要だとして、日本翻訳連盟常務理事、翻訳フォーラム共同主宰など、業界全体を視野にいれた活動も継続している。

 



日時●2016年3月10日(木)14:00 ~16:40
開催場所●剛堂会館
テーマ●「翻訳は深い――ことばの共通基盤まで掘って、そこに土台を築く」
登壇者●高橋 さきの Takahashi Sakino
翻訳者(特許、科学系書籍)
    井口 耕二 Inokuchi Koji
    翻訳者、JTF常務理事

報告者●茅野 栄一(翻訳者)
 



 今回のセミナーは、前半では、高橋氏が、翻訳の土台となる共通基盤のポイントをいくつか取り上げて説明した。後半は、高橋氏と井口氏の対談であり、参加者からの質問に回答する形式とした。

Ⅰ.翻訳は深い――ことばの共通基盤まで掘って、そこに土台を築く (高橋氏)
1.ことばの共通基盤とその土台

 翻訳の仕事を続けていくうえでは、①日本語と英語 (以下母語が日本語で、第二言語が英語の場合について述べる)、②日英翻訳と英日翻訳、③専門分野とそれ以外の翻訳に、共通の基盤で対処できるようにすることが大切である。

 共通基盤となるような事柄は、統語論、語彙論、文章論(レトリック論)に大別される。統語論では英文法や日本語文法(構文関係)を、語彙論では辞書・コーパスの使い方や専門用語の取扱いなどを、文章論では、文体や段落単位のことがらを主に考える。

 翻訳は、勘だけに頼って行う作業ではない。作成した訳文については、共通基盤として整理した事柄に鑑み、きちんと説明できてしかるべきである。

 上手に共通基盤を構築できれば、効率的な翻訳が可能になる。
 たとえば、翻訳時に整理した表現を、英語側からも日本語側からも引き出せるようなかたちで「簞笥」に格納しておければ、日英・英日どちらの仕事をしていても同じ「簞笥」を使って表現を導き出せる。

 なお、専門分野の翻訳と一般分野の翻訳はまったく別だと言われることも多いが、そんなことはない。専門分野の翻訳でも、一般分野の翻訳でも、専門用語(一つの文章中で同一の用語を使うことが好ましいとされる)も、一般用語(文脈に応じた訳語表現が求められる)も使用される。その比率がちがうだけである。どちらの分野の翻訳でも、双方のタイプを的確に取り扱えないと困る。

2.リライトの問題

 翻訳時のリライトには3種ある。1つ目は、文書の書式を日本式からアメリカ式に書き換えるなど、訳文使用事情に合わせた内容の調整である。2つ目は、訳文読者の文化や言語事情に合わせるための調整である。この2つは、通常、翻訳開始前に発注側と綿密な打合せが行われる。

 こうしたリライトは、いわゆる勝手訳(原文の内容を十分に確認しないで、自分の持つ知識をもとに文章を作成してしまった訳)とはまったく異なる。勝手訳は、文章としては滑らかであることが多いが、原文の内容とずれているようでは、翻訳とは呼べない。

 3つ目のリライトは、原文が不明瞭だったり、未完成だったりする際に、翻訳者側で原文の内容を調整して訳出するケースである。これは、前2者のリライトとは性格が違う。上述の「表現の簞笥」に、そうした不明瞭・未完成な表現を誤って格納しないよう、注意が肝要である。

3.母語が壊れるということ

 母語は盤石ではない。通常、翻訳者の仕事の質は経験とともに上がるものだが、母語が崩壊したケースでは、逆のことが起きる。翻訳は、言葉の根っこの部分を駆使する作業なので、そうした事態が生じやすい。質の悪い文章をいつも見ていると、こうしたことが起こる。

 母語が壊れる過程はどのように進むのだろう。表現を、①ふだん母語で文章を執筆するときに普通に使っている表現と、②訳出時に使用する表現の2つに分けて考えてみよう。母語が壊れはじめると、②の訳出時に使用する表現に、ふだん使う表現①ではないものが混ざってくるようになり、やがて母語で文章を書くときにも、そうした表現を使ってしまうようになる。こうした状況は、自分ではなかなか気づけない。ふだんから、きちんとした文章に接するよう心がけ、上述の基盤をしっかり形成しておくことが大切である。(なお、①の「ふだん母語で文章を執筆するときにふつうに使っている表現」のごく一部しか訳出時に使っていないケースというのも、それはそれで問題である。これは、訳文作成時に使うパターンが少なすぎる場合に見られるケースで、受験英語で習ったパターン以外使っていないケースなどが典型例である。訳出に使う表現を増やすには、日英翻訳も行っている翻訳者なら、日英翻訳で遭遇した表現を英日翻訳で使うという方法を使えるが、英日翻訳しか手掛けていなくても、ふだん日本語を読んでいるときに遭遇した表現に関して、「自分は、この表現を翻訳時に使っているだろうか」と考えてみる方法が使える。)

4.母語が壊れた場合の対処

 母語崩壊時には、ことばの基層に訴えかけるようなリハビリが必要になる。その意味で、シャドウイングやエア・ディクテーション(シャドウイングしながら、脳内で文字列を思い浮かべる作業、『プロが教える技術翻訳のスキル』に詳述)のような音の要素を含む訓練が有効である。これらの訓練は、翻訳スキルを磨くうえでも大変効率がよい。

5.訳例の検討

 今回のレクチャーでは、上掲書所収事例に言及するかたちで、文と文の関係を配慮していないブチブチ訳(訳例1)と、基本に則った訳(訳例2)の比較検討も行われた。

訳例1

外科医は年をとる。誰でも年をとる。そこに問題はあるのだろうか。日常生活での観察は、年をとると人間の身体スキルが落ちることを開示する。しばらくは、加齢には。知恵の増大が伴っているが、最終的には、精神活動さえ落ちる。

訳例2

外科医は年をとる。年をとらない人間はいない。年をとることは問題なのだろうか。日常生活の観察からわかるのは、年齢とともに、人間の身体スキルが落ちるということだ。それでもしばらくは、年とともに知恵が増えるが、最終的には、精神活動も衰えてくる。
 
 訳例1は、1文目と2文目は、ロジックとしてのつながりが不明確。3文目は、「そこ」とはどこを指すのかわからず、読者はキョロキョロしてしまう。また、原文では、4・5文目両方で観察内容が述べられているのに、訳文ではそうなっていない。一方、訳例2は、段落単位で基本に忠実なかたちで訳出作業を行った暫定訳なので、文章全体でみると必ず変更点が多数出てくるような段階のものだが、それでも基本どおりに訳されているので、棒読みしても抑揚がつくレベルの訳文にはなっている。原文の内容が訳文にきちんと反映されていることは、訳文としての最低条件だが、棒読みしても抑揚がつく(つまり、重要な点がどこかすぐにわかる)ような訳文をこしらえるのも、プロの翻訳者の仕事である。

Ⅱ.対談および質疑応答 (高橋氏、井口氏)

Q: 訳文作成時に生じる原文とのずれは、どこまで許容できるか。
A: 翻訳の場合、細かい部分にズレが生まれることは避けられない。だから、段落単位などではズレが小さくなるように意識して取り組む。
Q: 訳文でしか使用しない表現が良くないことは分かるが、それを自分で認識できない場合はどうするか。
A: 自分の言語感覚を疑って、調べることを繰り返す。対象分野の本を読むなど、自分を正常に戻す羅針盤を持つ。世の中の変化する言葉を使う場合は、少し保守的になる方が良い。

 

 

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