日本翻訳連盟(JTF)

分かりやすいことばと難しいことば

10/25 Track1 14:00-15:30

飯間 浩明 Iima Hiroaki

国語辞典編纂者・『三省堂国語辞典』編集委員
1967年、香川県高松市生まれ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。国語辞典編纂者。『三省堂国語辞典』編集委員。著書に『辞書を編む』(光文社新書)、『小説の言葉尻をとらえてみた』(同)、『国語辞典のゆくえ』(NHKシリーズ)、『非論理的な人のための論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー携書)などがある。


報告者:東 尚子(フリーランス翻訳者)

 


 

 本セッションは、翻訳にかかわるあらゆる人が日々向き合っている「ことば」の選び方について、ことばのプロ、飯間浩明氏からの提案という形でのご講演だった。ときおり客席から笑いも起こり、終始なごやかな雰囲気で進んだ。以下に講演の内容を要約して紹介する。なお、言及されている文献は青空文庫でも参照できるため、ここでは引用を最低限にとどめている。

 国語辞典の編纂という仕事をしていると、日常で見聞きすることばのひとつひとつがとても気になる。今も「午後のセッションが始まる」という案内を聞いて、アプリの国語辞典を引いてみた。「セッション」と言えば、私はまず即興演奏を思い浮かべるが、会議などのひと区切りもセッションと言うことを確かめた。あるいは、講演内容を事前にご相談した際に「翻訳祭という会の趣旨に寄せてください」と頼まれたが、この「寄せる」という言い方は新しく、注意が向く。
 ただ、気になるといっても、人のことばをとがめるつもりはなく、珍しいことばを知識に加え、次の辞書の改訂に役立てようとしている。ことばの正誤は絶対的なものではない。たとえば、若者の会話を描写する場面では「ら抜きことば」を使うのがリアルであって、「正しい」わけだ。
 今回、「分かりやすいことばと難しいことば」をテーマに選んだ。『三省堂国語辞典』はことばを分かりやすく説明しようという理想を持っている。このテーマならば、文筆に携わる人と問題意識を共有できそうだ。今もつい「問題意識を共有」と言ったが、これも持って回った言い方で、早い話が「関心を持ってほしい」ということ。つい漢語まじりの難しい言い方をする、これが私の癖であり、皆さんの癖でもある。それをなんとかしたいというのが趣旨だ。
 一口にことばが難しい、やさしいというが、ことばには音声やボディーランゲージなどいろいろな要素が絡んでいる。そのどこかに食い違いがあると、分かりにくくなる。その分かりにくさにもレベルがある。単語レベルで分からない場合。語と語が組み合わさって文になったときに、その組み立てが自分の予想と違っていて分からない場合。文が集まって文章になったときに、文章の進み具合が自分の予想と違っていて分かりにくい場合。
 単語の分かりにくさで思い浮かぶのは、お役所や政治家のことばだ。記者会見で「全力を傾注する」と言われて、すんなり分かる一般の人はそれほど多くない。あるいは「警戒警報を発出しました」という表現も使われるが、「出した」と言っても差し支えないだろう。こういった物の言い方は、日常的に無意識に行われている。
 次に、文の組み立て方による分かりにくさ。永井荷風の『濹東[ぼくとう]綺譚』に「然し此の老境に至って、このような癡夢を語らねばならないような心持になろうとは。運命の人を揶揄することもまた甚しいではないか」という一節がある。これは「運命の(が)、人を揶揄することも甚だしい」という意味だが、スマートフォンで朗読を聞いていると、「運命の人を、揶揄することも甚だしい」と区切っていた。「運命の人」がひとかたまりに聞こえる。ナレーターが内容を理解していないことが分かるが、永井荷風にも責任の一端はありそうだ。
 そして、文章の構成のしかたによる分かりにくさ。論文や批評文で、最初に問題を提起し、理由を述べてから結論を出す人が多いが、これでは結論が最後まで分からない。私は大学の授業で、「問題→結論→理由」の順で書くよう指導している。これなら全体の見通しがたって分かりやすい。ところが、この書き方がなかなか常識になっていない現実がある。
 自分は分かりやすく書いているつもりでも、実はそうなっていないことがある。いったん立ち止まって、他人の目で文章を見つめ直すことをご提案したい。
 『三省堂国語辞典』では、利用者がことばを選ぶときの判断材料になるように、ある工夫をしている。文章語は〔文〕、俗語は〔俗〕、話しことばは〔話〕、古風なことばは〔古風〕というように、位相(文体)を表示することだ。このラベリングを手がかりにして、文章の趣旨や文脈に合ったことばを選ぶことができる。位相表示はあまり注目されないが、文章を書くとき、ことばがやたらに難しくなったり、逆にくだけすぎたりすることを防ぐ指標になる。
 では、『三省堂国語辞典』の位相表示は的確かというと、残念ながらそうでないこともある。たとえば、旧版(第六版)では「思考」に〔文〕がついていた。「思考」などは会話で使っても違和感はないので、最新版(第七版)では表示を外した。一方で「殺める」「沙汰の限りを尽くす」が無表示だったが、日常会話で使うには難しい。
 従来は〔文〕か無印かを分ける基準があいまいだった。明確なラインを引くのはどうも難しかったが、私は「向井理さん(理知的な印象の俳優)が使いそうな言葉は無印(日常語)、向井さんでさえ使わなそうなら〔文〕(文章語)」というイメージを提案した。もっと年配の人で言えば、元NHKアナウンサーの山川静夫さんや加賀美幸子さんが使いそうなことばなら無印。もちろん、実際に本人には確認できないが、人物像を思い浮かべて判断した。これは案外有効だった。こうして、第七版では位相表示が大幅に変わった。
 国語辞典を作るわれわれは、説明の文章も分かりやすく書く必要がある。自覚はしていても、実際にはなかなか難しい。従来の解説を再点検してみると、分かりにくいものがある。たとえば、「両立」は、過去の版では「両方とも存立する」と書いてあったが、第七版では「両方とも成り立つ、できること」にした。このように、点検していくと、不適当な点がたくさん出てくる。大変な作業だが、次の第八版に向けて、手入れの作業は続けていかなければならない。
 ことばを分かりやすくするため、漢語よりも和語を選ぶというのはひとつの方法だ。漢語は耳で聞いたときに漢字が思い浮かばず、分かりにくい。今日の話で、難しいことばの例に挙げたのも漢語が多い。とはいえ、漢語よりも和語が常に分かりやすいとも言えない。
 ある日の日記を、自立語の部分は漢語だけで書いてみると、次のようになる。
 「○月○日、友人二名と三角山へ。幸運にも晴天で非常に快適。登山中、突然腹痛を感じたが、携帯した散薬を服用すると軽快した。昨夜の食事に中毒したのだろうか。午後、山頂に到着。眼下の眺望は最高で、市街が一望できる。疲労は全然感じなかった」
 たしかに、難しい。では、和語だけで書くとどうなるか。
 「○月○日、友だち二人と三角山へ。幸いにも晴れて、とても心地がよい。登っているとき、いきなりお腹が痛くなったが、持ってきた薬を飲むと良くなった。夕べ食べたものにあたったのだろうか。昼過ぎ、山の上に着く。見下ろした眺めはこのうえなく素晴らしく、街が一目で見渡せる。疲れはまったく覚えなかった」
 漢語だけの場合、ひとつひとつは難しくないが、連続して並べるといかにもおかしい。和語だけで書くと分かりやすくなるはずだが、全部分かりやすくなったかというとそうでもない。「まったく覚えなかった」など、和語にすると古臭さ、書き言葉っぽさが漂うこともある。和語・漢語という区別はひとつの指針だが、絶対的なものではない。

 今日は語彙の話が中心となったが、文の組み立てや、文章全体を考えに入れた分かりやすさについて、最後にひとつの例を紹介したい。戦前の若者の必読書だった阿部次郎『三太郎の日記』の一節だ。実は、大したことは言っていないが、非常に分かりにくい。
 「思想界の偉人と偉人との間に相互の理解を缺くこと多きは、人生の痛ましき事實の一つである。此の如き現象は如何にして生ずるか。其處には固より多くの理由がなければならない。……」
 最後まで読むと、要するに「著名な学者たちがお互いを認め合わず意地を張り合っているのは悲しいことだ」と言っているにすぎない。この文章が分かりにくくなっている一番の原因は何か。結論を言わないままに途中で理由をいくつか挙げ、本人が言いたいことは最後まで言わないところだ。「分かりやすさとは何か」について考えるとき、こういう文章を取り上げて、どこが分かりにくいのかを細かく分析してみるのも勉強になる。
 自分は分かりやすく書いているという先入観を、まず捨てよう。もっと改善できるところはないか点検し、相手の心に届きやすい文章を書こう。このようにご提案して、話を終わりたい。

最後に質疑応答の一部もご紹介する。
――位相のラベリングで、特定の人物像を想定する以外に、ビッグデータなどを解析して基準とするような方法は考えられるか。
大いに考えられる。現在でも、自前のコーパスや、インターネットのコーパスを利用して、ことばがどのくらい古いか、新しいか、一般的に使われているかどうかなどを判断している。ただし、そういう方法は、ある程度使われていることばには有効だが、用例が少ないことばはデータが不足する。桁違いのビッグデータがあれば解決できるのか、それは分からないが、今後考えていきたい課題だ。

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