日本翻訳連盟(JTF)

翻訳をアップデートせよ ~AI時代の翻訳力を理論と実践で考える~

2019年度第1回JTF関西セミナー報告
翻訳をアップデートせよ
~AI時代の翻訳力を理論と実践で考える~


山田 優

関西大学外国語学部/外国語教育学研究科 教授。日本通訳翻訳学会(JAITS)理事。 社内通訳者・実務翻訳者を経て、最近は翻訳通訳研究に没頭する。研究の関心は、翻訳テクノロジー論(MTPEなど)、翻訳プロセス研究(TPR)、翻訳通訳教育論(TILT、TI Literacy)など。



2019年度第1回JTF関西セミナー報告
日時●2019年7月11日(木)14:00 ~ 17:00
開催場所●大阪大学中之島センター
テーマ●翻訳をアップデートせよ ~AI時代の翻訳力を理論と実践で考える~
登壇者●山田 優 Yamada Masaru 関西大学外国語学部教授
報告者●平岡 裕資(関西大学外国語教育学研究科博士前期課程在学)

 


 

今回は、関西大学外国語学部教授・山田優と、同研究室の大学院生・松尾直と同じく大学院生・平岡裕資が発表を行った。本セミナーでは「翻訳をアップデートせよ」というタイトルのもとに、機械翻訳が使用できる時代に改めて翻訳を問い直すことを目的に、今ある情報を理論と実践の観点で整理しながら、参加者と議論を行った。以下では、その論点をまとめる。

背景1. ニューラル機械翻訳の実用化

 2016年、Google翻訳をはじめとした、ディープラーニングを用いたニューラル機械翻訳が実用化され、従来よりも格段にその精度が向上した。特に出力される訳文は人間が書いた文のように流暢なものである。しかしこの機械翻訳は、実際には、我々が翻訳を行うプロセスとは全く異なる状況において、まずはその根本的な違いを理解しておくことが重要だろう。

背景2. 翻訳者養成の体系化

 日本では、翻訳者の養成は専門学校や企業内でのOJTを通して主に行われる。そこでは翻訳理論や体系的な学習を学ぶ機会はあまりない。また、学習する内容は機関によって様々であり、その他の高度なスキルを要する職業のように体系化はなされていない。翻訳業界が将来的に持続可能な成長産業となるためには、一定の教育を受け、基準をクリアした者が翻訳者となれるような教育の仕組みが重要となる。

 上の二つには共通する問題がある。それは、「翻訳をより詳細に定義する必要がある」ということだ。業務の中で何を機械的に処理してよいのか。そして、どのようなスキルを習得すれば翻訳ができるようになるのか。これらに対する答えはまだ不明瞭なのである。

論点1. 機械翻訳と人間翻訳の違い

 翻訳を定義し、機械的に処理する範疇を決めるためにも、まず、人間の翻訳者にしかできないことを明確にするべきだろう。ここでは、「ラング」と「パロール」に分類して説明する。これらの用語は、言語学の祖・ソシュール(1972)が提唱した、言語を「文法」と「運用」に二分類するものだ。
 機械翻訳は大規模なコーパスから文法や語彙などのルールを学び、そこから確率的に意味を獲得し、文法的に正しい訳文を生成する。このようなプロセスを介するため、扱える範疇は「ラング」に限定されてしまう。
 一方でパロールとしての処理を含めて、人間は翻訳を行っている。パロールとは、翻訳に限って言えば、目的や文脈よって訳出が決定されるというスコポス理論(Vermeer, 1989/2004)が説くように、訳出対象であるテクストや言語学的情報以外も考慮する言語活動である。影浦(2017)は、そのような翻訳を「与えられた起点言語の文書を、現実に社会の中で他でもなくそれであるものとみなした上で、それに対して加えられる行為」としている。
 例えば、このような原文があったとしよう。
 "I am a cat." 
 これを、そのまま「私は猫です。」としてもよいだろうか。ラングの範疇で処理する機械翻訳は、その通りの訳文を出力し、これを正解訳とする(Google翻訳では品質保証のロゴが付与される)。しかし、パロールまで考慮すると、文脈や目的によっては夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の冒頭の一文であると判断される場合もあるかもしれない。その文脈においては、機械翻訳のように訳してはならず、既訳どおりに訳さなければならない(この場合は原文であるが)。実際のワークフローでは、クライアントの要望・要件やガイドラインなども考慮されるべき項目に含まれるだろう。

論点2. EMTの翻訳コンピテンス

 翻訳を定義する枠組みはいくつかあるが、ここではコンピテンスに関連したものを挙げる。EMT Framework Competence(2017)と呼ばれるものだ。これは、欧州共通翻訳修士(European Master's in Translation)で定められた、プロの翻訳者に求められる基本のコンピテンスをまとめたもので、欧州の翻訳通訳コースを持つ大学院修士課程で利用される。これにはLanguage and Culture、Translation、Technology、Personal and Interpersonal、Service Provisionの5つのコンピテンスが含まれる。
 このフレームワークは2009年の改訂版であり、従来のものに二つの観点が加えられた。一つはL2翻訳(非母語への翻訳)の増加、もう一つは機械翻訳を含む翻訳周辺のテクノロジーの発達への対応である。
 これまで翻訳は母語への言語方向が基本とされてきた(日本翻訳連盟, 2012:15)。しかし、非母語への翻訳も業務の一部として確かに行われており、その必要性が高まってきている(Pietrzak, 2013)。この実態をEMTは考慮しており、それは、テクノロジーのコンピテンスとして表れている。つまりは、コーパスや翻訳メモリの利用、さらにポストエディット・プリエディットを介した翻訳業務の強化と効率化によってL2翻訳を促進するというものだ。翻訳テクノロジーには機械翻訳に関する操作も翻訳コンピテンスの一部として明確に規定されている。ここでいう操作とは、ポストエディットとプリエディットを指す。これらは今話題であるが、L2翻訳を想定した議論はあまりなされていない。非母語への翻訳では、その効率性やワークフローがまた異なるかもしれない。
 このように、近年の動向に合わせて、EMTは作成されている。しかし、一方で、肝心な翻訳力そのものを表す翻訳コンピテンスでは、説明文に翻訳者は翻訳できなければならない、という循環論が多く見られ、そのため、まだ実際のコンピテンスの記述の解像度をあげていく必要がある。

論点3. 分野間での翻訳のズレ

 そして、これからの翻訳を考えるためには、まず、翻訳に関わる人々が同じ問題について協働することが不可欠だ。翻訳を扱う分野は実務だけではなく、翻訳学研究、翻訳者の養成、そして機械翻訳などの言語処理技術など多岐にわたる。しかし、各分野において、異なる「翻訳」とそれに関する問題を扱っており、共通の議論が深まりづらいというのが現状だ。例えば、実務ではMQMを基にした人間評価の枠組みが利用される一方で、言語処理ではBLEUなどの自動評価システムを用いることがある。このような相違が生まれるのは、それぞれが異なる視点で「訳出」を捉えているからだろう。逆の言い方をすれば、違うものを同じ「翻訳」という言葉で括っているのだ。機械翻訳の実用化や翻訳者養成の体系化に向けて真剣に考えるならば、分野間で同じ「翻訳」を共有しなくてはならない。

まとめ

 機械翻訳の実用化と翻訳者養成の体系化に向けて、私たちは改めて翻訳を考え直す必要がある。そして、分野間での翻訳のズレを解決し、協働しなくてはならない。そのためにも、まず今ある情報を互いに共有し、翻訳を専門とする研究者と実務者が改めて翻訳を見直し、解像度高く定義する必要がある。この問題に向けて、登壇者は新たに科研費プロジェクト「翻訳規範とコンピテンスの可操作化を通した翻訳プロセス・モデルと統合環境の構築」を開始した。分野間の接続を可能にするメタ言語の構築、実効性のある翻訳のモデル化、そして言語処理による実務の最適化などに向けて5年間のスパンで取り組む予定だ。
 


左から:平岡裕資氏、山田優氏、松尾直氏

参考文献

  • EMT Expert Group. (2017). EMT Competence Framework. https://ec.europa.eu/info/sites/info/files/emt_competence_fwk_2017_en_web.pdf
  • ISO 18587. (2017). Translation services – Post-editing of machine translation output – Requirements. Geneva: International Organization for Standardization.
  • TAUS. (n/d). 機械翻訳後編集のガイドライン. Retrieved August 17, 2019 from https://www.taus.net/academy/best-practices/postedit-best-practices/machine-translation-post-editing-guidelines-japanese
  • MQM (2015). Multidimensional Quality Metrics. Retrieved August 17, 2019 from http://www.qt21.eu/mqm-definition 
  • Papineni, K., Roukos, S., Ward, T. and Zhu, W.-J. (2002). BLEU: a method for automatic evaluation of machine translation, Proc. ACL, Philadelphia, USA, pp. 311–318.
  • Banerjee, S. and Lavie, A. (2005). METEOR: An automatic metric for MT evaluation with improved correlation with human judgments, Proc. ACL Workshop. 
  • 影浦峡. (2017). 改めて、翻訳とは何か:Google NMTが使える時代に. 言語処理学会第23回年次大会発表論文集, 931-934.
  • Saussure, F. D. (1972). Cours de linguistique Générale 一般言語学講義. (H. KOBAYASHI. 小林英夫, Trans.). Tokyo: Iwanami Shoten岩波書店.
  • 日本翻訳連盟. (2012).

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