[リンギストの仕事]第1回:駒宮俊友さん ― コミュニケーターの役割、優秀な翻訳者が生まれる土壌を作る
産業翻訳では、実翻訳作業に加えてさまざまな言語関連の仕事が発生する。たとえば言語品質保証、用語管理、TMやMTの整備などだ。本連載ではインタビューを通じ、従来の翻訳者像に留まらない新たな言語専門家像を「リンギスト」という名前で提示する。
第1回目は、翻訳者で『翻訳スキルハンドブック』(アルク)という著作もある駒宮俊友さんに聞いた。
(聞き手/執筆:西野竜太郎)
駒宮俊友
翻訳者。インペリアル・カレッジ・ロンドンにて修士号を取得(翻訳学)。ビジネス、法律、旅行、アートなどさまざまな分野の翻訳、LQA、ランゲージ・リードなどの業務に従事する一方、翻訳に関する講演やワークショップ、執筆も行っている。
今している仕事
翻訳に加えてコミュニケーターの役割も
―― 現在はどのような仕事をしていますか?
【駒宮】もちろん自分自身で翻訳をすることが多いのですが、この数年はLQA(Linguistic Quality Assurance:言語品質保証)やランゲージ・リードの仕事をする機会もよくあります。
まずLQAでは、他の人が翻訳したものの評価やチェックをします。またランゲージ・リードとしては、クライアントと翻訳会社との間に入ってミーティングをしたり、翻訳会社に対してトレーニングを実施したりします。そのうちトレーニングでは、たとえば翻訳支援ツールの使い方を教えたり、クライアントが求める品質を翻訳会社に理解してもらったりします。指示書だけでは伝わりにくい部分もありますから。たとえばマーケティング資料の場合、かなり細かいコンセプトを説明しないと翻訳に反映できないことがあります。その流れで、用語管理のサポートといった依頼を受けることもあります。
「翻訳者」という肩書で仕事はしていますが、LQAやランゲージ・リードの場合は「コミュニケーター」の役割に近いかもしれません。LQAはスコアを付ける人というイメージがあります。ただ、スコアと同じくらいレビューのコメントも重要になってきます。コメントを通じてコミュニケーションを図るということです。
これ以外としては、3年ほど前に『翻訳スキルハンドブック』を出版したのですが、そういった翻訳に関する文章の寄稿や、ワークショップや講演といった仕事もしています。
LQAという仕事
―― LQAとは、翻訳者が翻訳会社に納品したものをチェックする仕事ですか?
【駒宮】はい、そのケースもあります。他のケースとしては、ある翻訳会社から納品されたものについて、クライアントが第三者にレビューを依頼することがあります。そこで僕が第三者としてLQAをします。
―― LQAとの関連で、翻訳者のトライアルを見るようなこともありますか?
【駒宮】はい、あります。いろいろな会社から依頼がありますね。自分がLQAで関わっているプロジェクトに対するトライアルを見ることもありますし、翻訳会社に登録する際のトライアルを見ることもあります。
―― トレーニングという言葉もありましたが、翻訳会社に対してLQAでポイントとなる点を教えるようなことはあるのでしょうか?
【駒宮】ええ、クライアントが求めていることを説明した上で、翻訳時の注意点などの提案を翻訳会社に対してすることがあります。自分の著書を使って細かいテクニックをアドバイスしたこともありました。こうなってくると、今の仕事を何と名付けたらよいのか分からなくなって来ますね(笑)。ランゲージ・リードとも少し離れている気もしますし。僕は翻訳者と名乗ることが多いですが、翻訳全体のサービスを提供しているというイメージを持っています。翻訳を教えたり本を書いたりするのも、その一環と考えています。「翻訳だけをやる人」と自分自身を定義していません。
―― それはやはり言語に関わるさまざまな仕事をする「リンギスト」に近いでしょうか?
【駒宮】そうですね。自分自身のイメージを言葉にすると「トランスレーション・スペシャリスト」という言葉がぴったりだと思っていて、それを目指して活動しています。
コミュニケーターという役割
―― 先ほどコミュニケーターという表現もありました。コミュニケーターとしてはこの辺りが難しいとか、悩ましいとか、楽しいとかというポイントはありますか?
【駒宮】一番大きいのは、クライアント、翻訳会社、外注先翻訳者など、いろいろな人が関わる部分ですね。皆で同じプロジェクトに関わっていても、立場によって視点が異なるので、それぞれ見えている景色が違うことがあります。ですからプロジェクトを多面的に捉えつつ関係者間で共通の言葉を見つける点に、難しさも面白さもあります。ある方向から見ると円にしか見えないけれども、「実は球なんです、立体的なんです」と伝えるのが重要な仕事だと思っています。LQA時のコメントでも、そこを目指して書くようにしていますね。
ただ同時に、立場が違うので利害関係に踏み入らざるを得ない場合もあります。繊細に気を使いつつも、空気を読み過ぎずに言うべきことをしっかり言わないといけないケースもあります。そうしたバランスを色々と考えながら仕事を進めること自体に面白さを感じています。
何をしてきたか
―― どのようにして今の仕事をするに至ったのか、その経緯を教えてください。
【駒宮】イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンという大学の修士課程で、翻訳学を専攻していました。翻訳を巡るさまざまな理論を学ぶ中で、僕自身は特に字幕やユーモア翻訳の研究に興味がありました。大学院で学んだことが、翻訳についての文章の執筆やLQAに役立っています。
もともと映画や音楽作品など感性から生まれるものは好きだったのですが、その魅力を論理の側から説明するのにも関心がありました。感性と論理の間に知的な魅力があると思っていて、そうした部分が今の自分の仕事にもつながっているように思います。
論理に裏打ちされた感性
―― 実務翻訳だと、自分の感性だけで翻訳するのでなく、用語集やスタイルガイドといったルールを守りつつ翻訳しなければならない場面もありますね。
【駒宮】僕はそこに楽しさを見出していますね。子供の頃はサッカーや野球をやっていました。スポーツではルールの中で勝負をします。クライアントからの指示もスポーツのルールのように捉え、そこでどうするかと考えるのは、自分に合っています。授業やワークショップでは、翻訳の仕事は感性だけでも駄目で、論理だけでも足りなくて、「論理に裏打ちされた感性」が大事だとよく話しています。
―― 大学院を修了した後、帰国して今の仕事をしているのですね?
【駒宮】はい、大学院を卒業した後に、ロンドンにあるUCLという大学で、ティーチング・アシスタントとして字幕の授業を担当しました。短い期間でしたが、翻訳を教えるのはその時が初めてでしたね。帰国後に、テンプル大学の生涯教育プログラムで翻訳講座を教える機会を得て、2020年4月まで講師として色々な翻訳コースやワークショップを担当しました。
これから何をしたいか
優秀な翻訳者が生まれる土壌を作る
―― 翻訳に関連して、これからしたいと思っていることはありますか?
【駒宮】2つあって、まずは翻訳教育です。先ほどお話ししたテンプル大学での指導の経験から、教えることの面白さに気付きました。教えることが、同時に自分自身の学びにもつながることが大きな発見の1つでした。また、翻訳を学べる本が数多く出版されている一方で、本当の意味で初学者向けのものは少ないのではないか?と感じている部分もあります。『翻訳スキルハンドブック』を執筆したり、翻訳学習者向けのトーク・イベントを開催したりしているのは、そうした翻訳教育への興味が下地になっています。特に、全くの初心者や未学習者に、どうやって翻訳の魅力を伝えるかという点を考えています。たとえば習熟度に0から100までの幅があったとして、70以上が上級者だとします。現時点では0から70くらいの習熟度の方に、プロとして求められる翻訳スキルや、翻訳の面白さを紹介することに大きな関心があります。
もう1つは、先ほどの話とも関係しますが、より多くの人に翻訳に関心を持ってもらえる機会の創出です。今年の春頃からオンラインで始めた翻訳体験ワークショップで、参加者の方々と話をする機会があります。その際、彼らから「翻訳関係のイベントに普段参加すると、毎回同じ人たちが参加しているような印象がある」という声を何度か耳にしました。こうした傾向には良い面も悪い面もありますが、「知的興味は大勢で共有するほど面白い」と考えるなら、翻訳に関心のある人たちがもっと気軽に参加できるイベントや学びの場が、これまで以上に増えると楽しいのではないかと思っています。優秀な翻訳者が生まれるためには、まずは翻訳に興味を持ってもらうことが必要です。新しい人たちが登場する土壌を作るということですね。
これからのリンギスト
―― 今後、リンギストあるいは言語専門家の仕事はどうなるか、何かお考えはありますか?
【駒宮】自分自身も、翻訳を超えていろいろな仕事をしています。翻訳会社に以前勤めていたときは、たとえばレビュー、LQA、用語管理、TMの整理なども担当しました。個人的に、クライアントや翻訳会社に求められれば応えるのが仕事の前提だと考えていて、現実的には「翻訳だけをやりたい」という考えは今後通りづらくなるのではという印象があります。
実は「リンギスト」は新しいものではなく、翻訳に派生する作業はそもそも存在していたのに、それを引き受ける側に適した名前が与えられていなかったのかもしれません。実務やビジネスの翻訳の場合、「翻訳者」の存在だけではプロジェクトは進行しません。ただ、急に「リンギスト」と名前を変えるのには難しさもありそうです。長年使われてきた「翻訳者」という名の通りの良さも、とても重要だと思います。
翻訳の「おまけ」になってしまう作業
【駒宮】翻訳プロジェクトでは翻訳に付随するいろいろな作業が発生し、翻訳者に頼むことがあります。もちろん付随作業を無償で引き受けるかどうかは当人次第ですが、問題は有償でやるか無償でやるかの選択肢がない点ですね。選択肢が無償だけだと対価も発生せず、翻訳者は困ってしまいます。
―― TM管理みたいな作業は翻訳の「おまけ」ではなく、1つの仕事として認識されて初めて「対価を払おう」ということになるかもしれません。
【駒宮】そう思います。翻訳者という言葉しかないと、翻訳以外はおまけ作業としか認識されません。たとえばTMの管理やアラインメントみたいな作業は「翻訳者」という言葉が持つ意味合いからは抜け落ちてしまっています。そういう点では、名前を変える必要性やニーズはあると思います。
リンギストという職名
【駒宮】リンギストは良い名前ですし、海外でも一般的です。ただ一方で、具体的に定義しないと何でもかんでも入り込んでしまう危険性はあると思います。
―― たとえばイギリスの団体CIOL(Chartered Institute of Linguists)にはLinguistという言葉が使われていますが、翻訳や通訳に加え、外国語教育なども入っています。今後日本語で「リンギスト」というカタカナ語を使う場合、仕事範囲の明確化が必要かもしれません。
【駒宮】そのうちリンギストが一般化し、「翻訳者になりたい」ではなく「リンギストになりたい」という時代が来たら面白いですね。
―― YouTubeは2000年代に登場したのでまだ十年ちょっとしか歴史がありませんが、「ユーチューバー」は小中学生が成りたい職業の上位に入っています。ですから将来はどうなるか分からないですね(笑)
(インタビュー日:2020年12月7日)