私の一冊『白鯨 モービィ・ディック』
第18回:英日・日英翻訳者 新田享子さん
パンデミック宣言とともに私は千石英世訳の『白鯨』を開いた。この小説が書かれた時代はまだ飛行機がなく、空が静かだった。それがロックダウン中の街の静寂にぴたりとはまり、私は19世紀半ばの世界にすっと入っていった。
エイハブ船長が率いる捕鯨船は、アメリカ東海岸を出発し、喜望峰を回り、まだ鎖国中だった日本沖、「処女の扉を固く閉ざしたジャパン諸島」の沖でモーヴィ・ディックと対決する。船には語り手のイシュメールや、片足のエイハブ船長だけでなく、顔がタトゥーで覆われたスキンヘッドのクイークェグ、料理人「羊毛男」、給仕係の「白玉小僧」など、愛すべきバイプレイヤーたちが乗り込んでいる。マッチョな男たちの話ばかりでなく、鯨のミルクは練乳のように濃厚で、苺にかけて食べるとおいしいという小ネタも、私は仕入れることができた。
ところが、男たちはなかなか航海に出ない。この小説を鯨文学と言わしめる、鯨についての蘊蓄が延々と続くからなのだが、この知識は無駄にならない。その理由は白鯨との死闘シーンで明らかになる。まとまった時間ができたとき、是非堪能していただきたい。
◎執筆者プロフィール
新田享子(にった きょうこ)
英日・日英翻訳者。サンフランシスコ・ベイエリアに長年暮らし、半導体企業で翻訳を経験したのち、カナダのトロントへの移住をきっかけに出版翻訳を開始。テクノロジー、国際政治、歴史、文学理論、服飾と幅広い分野のノンフィクションを手がけている。『類語辞典シリーズ』(フィルムアート社)、『危機の地政学』(日本経済新聞出版)、『18世紀のドレスメイキング』(ホビー・ジャパン)など訳書多数。ウェブサイトはwww.kyokonitta.com
★次回は、英日・日英・仏日翻訳者の待場京子さんに「私の一冊」を紹介していただきます。