「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編
第4回:英語漬けで猛勉強したアメリカ留学から帰国
スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰する You Tube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介します。前回では、出光興産入社2年目に社内留学でアメリカ・オハイオ州立大学(OSU)にやってきました。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)
一生で一番勉強した日々
井口:留学して最初のクォーターは、夜 2 時くらいまで勉強し、朝6時には起きてまた宿題を始めるという生活でした。
一番きつかったのは宿題。研究室の先生が、授業中に例題をたくさん出すのですが、その中で“OK, I assign you.”というひと言が入っているものは宿題なんです。それを聞き逃すと、どれが宿題なのかわからない。宿題が出たことすらわからない。
あるとき授業に出ていったら、みんなが今日の宿題がどうのこうのとしゃべっているんです。
「え、宿題あったっけ?」「先週これが出たよ」「えっ、知らない!」
そんな会話の途中に先生が来て、授業が始まり、最後に宿題を出せと言われる。
「すみません、宿題が出たことに気づいていませんでした。2、3 日ください。急いでやって出します」「わかった、待ってやる。今日も宿題が出たのはわかっているか?」「それはわかってます」
宿題の中身はわかったんですが、締め切りがいつなのかが聞こえなくて、授業が終わってから中国からの留学生に「締め切りはいつ?」と聞いたら、「どっち?」「え、ふたつあったの?」なんてこともありました。
最初はそんな状態で、夕方にはガンガン頭痛がしていました。英語ができるようになるのが先か、ノイローゼになるのが先かという感じ。一生で一番勉強したのがあの時期だと思います。
松本:社会人になってからもスケートは続けていたんですか。
井口:基本的にはやっていません。OSU にはリンクがあったのですが、最初のクォーターはまったく余裕がありませんでした。ある程度余裕ができてからも、冬場に遊びで滑りに行ったりはしましたけど、その程度でした。もう選手ではないので。
3 カ月で英語ができるように
井口:オハイオはとにかく田舎で、OSU には日本人がいないんです。うちの学科は、学部生、マスター、ドクター全部合わせて日本人学生は私ひとりでした。
松本:へえ~。じゃあ、まったく日本語をしゃべる機会がないってことですよね。
井口:学科の建物の中に日本人学生は私だけでしたが、私がいた研究室にはひとり、ポストドクターで日本から来ていた研究者の方がいました。
松本:アパートを探すのを手伝ってくださった方ですね。
井口:そうです。この人が帰るのと入れ替わりに次のポスドクの方が来たりとかはありました。それからもうひとり、日本人でアメリカの大学を卒業し、博士課程を終えた人がいましたが、それだけしか日本人がいない状態でした。
アメリカ人から、「なんでこんな田舎に来たの? アメリカ人でもこんなところ来たいと思わないのに、なにを好きこのんで」と言われるようなところなんです。流動層の先生が OSUだったから仕方がないんですけどね。
そんなわけで日本語をまったくしゃべらず英語オンリーの生活でしたから、最初のクォーターが終わって2クォーターが始まったころには、さすがに英語ができるようになりました。
授業の最初に課題の紙を配る先生がいて、その紙を頭から読んでいる途中に、「ここはポイントだから」というような説明をするんですが、場合によっては、「裏面のここだけど……」と表面の真ん中くらいまで読んでいるときに言われて、紙をひっくり返して、メモを取れるくらいにまでなっていました。
松本:クォーターということは3カ月ですよね。
井口:はい。その3カ月間は死にそうになりましたから。その後も含めて2年間、ずっと英語漬けで、日本語を使う機会はほとんどありませんでした。
食事は寮の食堂で食べていました。寮生向けの食堂なんですが、1 週間に何食と契約すると寮生じゃなくても食べられるんです。
最初のころは時間の節約のためにそこで済ませていたんですけど、ある程度余裕が出てきたころからは、そこに集まっている寮の院生と2時間くらいおしゃべりしながら過ごしていました。だから全然時間の節約になっていなかったんですけどね。そうやってワイワイやっているときに、日本人が私以外にひとりかふたりいても、まわりのアメリカ人学生や各国留学生は日本語がわからないので、日本人同士でしゃべるときも基本的に英語でした。
年間 150 冊相当の読書
松本:ずっと英語で生活していて、まわりもみんな英語をしゃべっていたのに、日本に帰ってくるといきなり全員日本人で。
井口:日本語は理解できるからいいんですけど、話題によっては日本語で話すよりも英語のほうが楽なこともありましたね。英語で入ってきたものは英語ならそのまま出せばいいけれど、日本語で話さなきゃいけないとなると、必死になって頭の中で「えーっと……」みたいなことになるので。
松本:だから翻訳って難しいですよね。
井口:そうですね。ちなみに帰ってきたころは、『TIME』をパラパラ読みながら英語で CNNを聞いて、横でしゃべっている日本語の話にときどき割り込む、ということができるくらいになっていました。2年間暮らすとさすがに違うものだなという感じですね。
松本:しかもそういう英語漬けの環境でね。
井口:2年間と時間がきまっていたこともあって、極力英語だけの生活にして量も増やそうと考え、ある程度余裕が出てきたあたりからは、雑誌『TIME』と『BusinessWeek』を定期購読して、カバートゥカバーで全部読んでいました。
松本:へえ。
井口:ファッションとか、わけのわからない話だなと思いながら、そこも一応全部読んでいました。あとはペーパーバックです。雑誌ってだいたい1冊で薄めのペーパーバック1冊分くらいあるんです。週刊誌だから 52 週で、雑誌 2 冊丸ごと読んでいると、だいたい年間 100冊、それにペーパーバックと、新聞も日曜版は取って読んでいましたから、年間 150 冊くらい本を読んでいた計算だと思います。
読むスピードの計測をけっこうやっていて、最初は『TIME』がだいたい 1 分 50 ワードくらいでした。アメリカ人がゆっくりめに話して 1 分 100 ワード、普通にしゃべって 120 ワード、早口の人で 150 ワード近くになると言われていますが、読んで 50 ワードのスピードだったら、耳で聞き取れるわけがないんですよ。だいたい 150 ワードを超えたあたりから聞くのが楽になりました。最後は『TIME』でだいたい 250 ワードくらいまで上がりました。
ちなみにそのころは、今みたいにスマホもないし、デイリーコンサイスの英和和英がセットになっている辞書をウェストバッグに入れて常に持ち歩いていました。
松本:あの小さなポケットサイズの辞書ですね。
井口:はい。まだ家にありますが、ケースがボロボロになっています。
松本:最近見かけませんが、私も持っています。今だとスマホで読めちゃいますけどね。
井口:そんなわけで、さすがに 2 年間やると英語はそれなりにできるようになるという感じですね。
松本:2 年分の英語が全部、体にしみこんでいるわけですね。
帰国後、NEDO 出向を経て出光のビジネス部門へ
松本:それで日本に帰っていらっしゃったんですか?
井口:1989 年の秋に修士号を取得して帰国し、出光興産新燃料部直轄の研究室に戻りました。その 2 年後の 1991 年に結婚しています。その前後くらいから通商産業省(現経済産業省)の外郭団体である新エネルギー産業技術総合開発機構(NEDO)に出向しました。出光から常に何人か出向していて、うちの研究室から前任者と交代で私が出ました。
NEDO では、出光の研究室と関係ある仕事が本来の業務なのですが、それ以外にも海外プロジェクトなどを担当していました。APEC(アジア・太平洋経済協力)の作業部会に石炭に関するワーキンググループがあって、その日本事務局の代表者は通産省キャリアの方でしたが、実質的な事務処理などは私がやっていました。海外とやり取りするレターを訳したり、キャリアの方の海外出張に同行したりしました。
松本:通訳みたいな感じですか。
井口:そうですね。それも兼ねて年 3 回、3 年間で 10 回くらいは海外出張しました。1994年、NEDO から出光に戻るころに自宅を建てています。出光の社内融資を目いっぱい借りて、妻の融資分も合わせて何とか建てました。
NEDO での評価はけっこうよかったみたいで、出光に戻る前には移籍の誘いもありました。NEDO から国連系のどこかに人を出すから行ってくれないか、という話だったんですが、あそこは激務なので過労死はしたくないなと思い、お断りして出光に帰ってきました。
戻るときに、新燃料部の研究室の室長さんから本社新燃料部の次長になっておられた方、ずっとお世話になった方なんですけど、その方から、「今なら好きなところに戻してやれるから、どこに戻りたいか希望を出せ」と言われました。本業の石油部門でもいいし、研究室に戻りたいならそれでもいいという話でした。
もともと代替エネルギーをやりたくて入社したので、石油に行く気はない。研究は好きか嫌いかと言われたら好きなんですけど、好き嫌いと向き不向きは違うと思うんです。実際に研究室の仕事をしてみて、あまり自分に向いていないなと思っていました。そうしたら、室長さんからも「俺もそう思う」と言われました。
結局、本社新燃料部の、いわゆるビジネス部門に移してもらい、そこでしばらく石炭の輸入を担当していました。担当地域はアメリカ、ロシア、中国で、エリアは広いけれど案件的にはあんまり多くないんです。
石炭輸入はオーストラリアからが一番多く、次いでインドネシア。南アフリカからの輸入も多いけれど出光は扱っていませんでした。オーストラリア、インドネシアに比べて輸入量が少ないアメリカ、ロシア、中国をひとまとめにして担当していました。
その仕事に移って、本社の部内で翻訳が必要なときには、他の課の課長さんからも「君、ちょっとこれ頼むよ」と、業務の範囲内でときどき翻訳もしていました。
飛躍的に伸びた TOEIC 得点
井口:本社に戻った後、会社の集団受験で TOEIC を受けています。実は入社した年の秋にも、いずれ受けなきゃならなくなるとわかっていたので、同期何人かで 1 回試験を受けに行っています。その結果を待っている間に留学の話がきたんですけど、そのときは 650 点くらいでした。あのころの出光の社内では、最終目標が 650 点と言われていたので、その時点でぎりぎりクリアはしているくらいだったんです。
留学後 NEDO 出向を経て本社に戻ってきて受けたときは、ヒアリング、リーディングとあって、筆記のところを 3 回やって、まだ時間が余ったので、途中退出して部内の自席に戻ってきました。
松本:3 回やって時間が余ったんですか。
井口:はい。わからないところは 3 回やってもわからないですから。2 回やって答えが違うとどっちだろうと考えますけど、3 回目はほとんど意味がない。でも時間が余ったので 3 回目もやって、それでも余ったので、やめて自席に戻りました。戻ったら、「もう帰ってきたの? 早い!」とか言われて、「3 回やって時間が余ったので帰ってきました」とも言えず、ごまかしましたけどね。
そのときの TOEIC は 965 点だったかな。部内ではダントツでした。独身で英語漬けだった留学から帰ってきてすでに 4~5 年経っているので、帰国当時に比べれば落ちているとはいえ、その間も英語を使う仕事をずっとしてきていましたから。
松本:TOEIC はやっぱり仕事で英語を使っていないと辛いですね。
井口:そうですね。(次回に続く)
(「Kazuki Channel」2021/8/18 より)
◎プロフィール 井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye 翻訳者(出版・実務) 1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。 2005 年からは出版翻訳も手がけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。 ◎インタビュアープロフィール 松本佳月(まつもと・かづき) 日英翻訳者/JTF ジャーナル編集委員 インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle版、2022 年)。 齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito 翻訳者/日本翻訳連盟(JTF)理事 電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネータ、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。 |