「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編
第7回:専業翻訳者になるために取引先と分野を広げる
スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰するYouTube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介します。2年の留学後、会社員生活のなか、いきおいで始まった副業翻訳でしたが……。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)
●取引先を1社から5社に増やす
井口:育児問題をきっかけに、会社員との二足のわらじから専業の翻訳者になる道を模索し始めました。専業でやるなら仕事量が必要なので、それまでの専門知識に頼る翻訳から範囲を広げなければなりません。専業になるというアイデアをもらったのもパソコン通信の「翻訳フォーラム」でしたが、その少し前から翻訳の基礎のようなことを翻訳フォーラムでの議論を通して勉強していて、それなりになんとかなるかなという感じにはなっていました。それでも専業になって本当に大丈夫なのか、その可能性を確認するためにいろいろと動き始めました。
まず翻訳フォーラムで知り合って仲良くなった友だちに、実際、専業の世界はどんなふうなのか、自分が専業になったとしてなんとかなりそうだと思うかといったことを相談してみました。思う、思わないと言われたからどうというわけでもないのですが、その世界で食べている人間からどう見えるかは、ひとつの参考になると考えてのことです。
取引先も増やすことにしました。それまで取引していた翻訳会社は1社だけで、そこから自分の専門分野の仕事だけを受けていましたが、仕事量も分野も広げるために必要だと考えたからです。結果的に、二足のわらじの最後の1年は、取引先が5社になっています。
その中の1社が、大手のDHCです。大手の翻訳会社はいろいろな分野の案件をもっているだろうし、取引する翻訳者も多いはずで、その中に自分が食い込めるのかを確認する意味でもどこか1社は大手とやってみようと思ったからです。
もう1社は、当時私が参加していた、エネルギー系翻訳のオンライン勉強会で知り合った方が取引していた翻訳会社でした。自分の手が回らなくなったからと紹介してくれたんですけど、ある日、家に帰ったらFAXが届いていて、「〇〇さんのご紹介です。単価いくら、今回の締め切りはいつ」といきなり仕事が飛び込んできました。先方から話があって取引が始まった技術系の翻訳会社もあります。英訳主体の会社で、自動車関係の技術系論文の日英をよく請けました。
齊藤:すごいですね。
●単価を決めてトライアルを受ける
井口:取引先を増やすと同時に、単価も上げることにしました。最初の翻訳会社は先方の言い値で、最近のワード単価に換算するとだいたいワード8円くらいでした。翻訳フォーラムでいろいろ話を聞くと、400字2000円くらいが当時の一般的な産業・技術系翻訳の上限と言われていました。ワード単価で13円~14円くらいのイメージだと思います。
松本:それは、仕上がりでということですか。
井口:仕上がりで400字2000円ということです。そこまで単価8円だったわけですが、専業でやっていくことを考えると単価を上るべきだと、14円で各社と話をして、トライアルを受けました。
松本:最初に単価提示をして、合意したらトライアルを受ける形ですか。
井口:私はそうしていました。トライアルを受けて合格してから単価交渉して、うちにそういう仕事はありませんと言われたらお互い、時間が無駄になるだけなので。
松本:そういうパターンは多いんですよね。
井口:実際、取引先を増やしていたときに、1社は「うちにその値段で出せる仕事はありません」とのことで、トライアルにいたらなかったところがあります。そのほかは、トライアルも何もなしにいきなり仕事が送られてきた1社以外は、基本的にトライアルがありました。
大手については、アルクなどの翻訳ムック本の後ろのほうに載っていた求人情報から何社かチェックして、最初にトライアルを受けたDHCがOKだったので、ほかには行きませんでした。
そのころ、翻訳フォーラム内に「翻訳者データベース」なるものができました。翻訳者が自分で経歴や専門分野などを登録し、それを見て翻訳会社がコンタクトを取れるようにという意図で作られました。立ちあがったばかりのころに一応登録しておいたら、そこから声がかかってトライアルを受けたのが英訳中心の自動車系翻訳の会社です。
あと1社は、翻訳者仲間に聞いて、教えてもらった技術系に強い翻訳会社です。そんなふうにいろいろな形で3社のトライアルを受けて、全部通りました。
松本:すばらしい。
井口:トライアルに合格しても仕事がこないというのもよくある話ですが、私の場合は、トライアルを提出してから初仕事が来るまでに1週間を超えたところはありませんでした。
●始発電車に乗って仕事をこなす
井口:このころはまだ会社員をやりながらの二足のわらじだったので、あまり時間がありません。だから朝の通勤で座れるように6時過ぎくらいの始発電車に乗って、膝にノートパソコンを置いて翻訳の仕事をしていました。ちなみに先日片付けをしていたら、当時のノートパソコンが出てきました。コンパックのパソコンなんですけど。
齊藤:コンパック、懐かしいですね。
井口:バッテリーがもつことを優先して選んだので、ディスプレイはモノクロでした。カラーディスプレイもあったのですが、バッテリーが30分ももたないので使えません。モノクロなら30分は大丈夫で、電車の中でバッテリーが切れることはまずなかったです。
松本:通勤時間は片道どのくらいだったんですか。
井口:電車に乗っている時間は40分くらいでした。通勤中とか昼休みに翻訳の仕事をして、当時はインターネットも携帯もありませんから、データ交信ができる公衆電話にラインをつないでパソコン通信で送っていました。
松本:へえ。
井口:ちなみに、専業転身に向けてあれこれ活動していた年の売り上げは、400万円強だったと思います。
松本:すごいですね。会社の仕事をしながらですものね。
井口:はい。朝は早くないと電車で座れないので、6時過ぎには駅に着いていました。以前から朝型だったのが、このころ完全にシフトした感じです。6時過ぎに電車に乗ると7時15分か20分くらいに会社に着いちゃうんですよ。定時は9時からですけど、当時勤めていた出光興産はちょっと変わっている会社で、出勤簿自体がないので残業手当もつきません。内輪ではよく、「コアタイムが9時~5時のフレックス制」と称していました。
齊藤:なるほど。
井口:そういう会社で、みんなだいたい遅くまで仕事をしているんです。私は、夕方わりと早めに帰るもので、「あいつ、もう帰るのか」「朝は早いからな」という話になっていました。ときどき夜に他の課と合同会議をするときに、「おまえがいないとできないじゃないか」と文句を言われたこともあります。ですが、感謝されることもありました。
あるとき事務所に泥棒が入り、機械警備が導入されたんです。それはいいんですが、うちの部のトップが常務取締役で、毎朝7時過ぎに会社に来るんです。一応、大会社なので、常務取締役は偉いんですよ。常務は鍵なんぞ知らんという人だったので、若手の社員がシフトを組んで、常務のために朝7時半までに事務所の鍵を開けることになりました。私はいつも朝が早いので、各課に配られたカードキー2枚のうち1枚を常に持っていたのですが、当番の社員から電話がかかってきて、「すいません、いま目が覚めました。もう間に合わないんですけど、井口さん、今日は何時に行きますか?」「大丈夫、7時半までには着くから」と当番の代わりに鍵を開けることがよくありました。だから夕方早く帰っても、「助かっているところも多いからね」と言われたわけです。
●翻訳フォーラムの運営スタッフになる
井口:取引先を増やすために活動していた年の1997年4月に、翻訳フォーラムのアドバンスメント館に「翻訳JOBビジネス応援会議室」というものが新設されました。ビジネス翻訳ではなく翻訳のビジネス的な側面、たとえば翻訳会社との交渉の仕方とか、トライアルをやって提示単価が合わない場合にはどうしたらよいかとか、そんなことを扱う部屋です。
その担当サブシスという形で、翻訳フォーラムの運営スタッフに私も参加しました。参加のきっかけは、当時のシスオペの方が先ほどの「翻訳者データベース」を立ち上げて、場所はつくったものの、プロモーションが全然なかったことからです。
松本:つくりっぱなしという感じですか。
井口:たとえば、誰かがデータベース経由で仕事が取れたとなれば、じゃあ私も登録しようという話になるじゃないですか。そういうことがあったら報告してもらうとか、報告があったら「よかったですね」とひと言コメントするとか、そういうことがプロモーションになるわけですが、それが全然ない。
聞いてみたら、スタッフの人的資源の問題で、手が回らずにつくっただけで放置状態になっているということでした。そこで、「翻訳者データベース私設応援団長」と名乗って、勝手にプロモーションを始めました。フォーラム公式じゃなくて勝手にやっていますよということで、署名の下に「私設応援団長」とつけて投稿していたら、新設された「翻訳JOBビジネス応援会議室」の担当サブシスをやってもらおうという話になったらしいです。そんなわけで二足のわらじ時代の最後のころに、運営スタッフに入りました。
また、専業になるための準備として、『通訳翻訳ジャーナル』や『翻訳の世界』など翻訳関係の雑誌も必ず買って読んでいました。
『通訳翻訳ジャーナル』1997年6月号のちょっと上の代の方のインタビュー記事の中に、sed(セド)というスクリプト言語で一括置換をして手間を省くというアイデアが載っていました。いちいち置換するのが面倒くさいなと思っていたところだったので、これはいいやと秀丸エディタのマクロ言語の勉強を始めて、約4カ月後に同じような機能を実現しました。でもマクロは遅いので、Perl(パール)に変え、スクリプト言語だと扱いが難しいのでVisual Basic(ビジュアルベーシック)にして、さらにスピードアップのためにDelphi(デルファイ)に変わり、それがいま公開している自作の翻訳支援環境SimplyTermsにつながっています。たまたまその記事がこの時期に出ていて、読んだのが幸運だったと思います。
●会社に退職の意思を伝える
井口:1997年の秋、10月くらいに退職の意思を会社に伝えました。会社員の立場として私はヒラだったので、退職の話は直属の課長にするんですね。
松本:それまで一切、その話はしてないんですね。
井口:社内ではまったくしないで、準備だけは進めていました。それで今日話そうと決めた日は、夕方からみんなが帰るのを待っていて、人が減ったタイミングを見計らって課長のところに行き、話を切り出したんですけど、さあ言うぞと椅子から立ち上がったら膝が震えていました。
齊藤:おお。
井口:一生勤めるつもりで入社して、転職するつもりはまるでありませんでしたから。
松本:アメリカにも行かれていたわけですしね。
井口:はい。辞めると一回言っちゃったら、引っこめるわけにはいきません。仮に、やっぱり辞めるのはやめますと撤回して続けたとしても、一度言ったことは残りますから。課長に言わずに自分の中だけで気が変わったのなら、なかったことにできますけどそうはいかない。これが戻れない一線を超える瞬間だと思ったんでしょうね、膝が震えていたのを覚えています。
とにかく課長に退職の意思を伝えると、「言いたいことはわかった。簡単にどうこうという話でもないので、詳しいことはおいおい相談しましょう」と言われて、その日は終わりました。(次回に続く)
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◎プロフィール 井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye 翻訳者(出版・実務) 1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。 2005 年からは出版翻訳も手がけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。 ◎インタビュアープロフィール 松本佳月(まつもと・かづき) 日英翻訳者/JTF ジャーナル編集委員 インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle 版、2022 年)。 齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito 実務翻訳者 電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネータ、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。 |