「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編
第8回:会社を退職して専業翻訳者になる
スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰するYouTube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介します。井口さんは大学卒業後、一般企業に就職。2年の社内留学、帰国して会社復帰、副業での翻訳を経て、育児問題を解決するため翻訳を本業にと覚悟を決めました。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)
●会社退職をめぐる話し合い
井口:所属部署直属の課長に退職の意思を伝えると、「詳しいことはおいおい相談しましょう」ということで、その日は終わりました。翌朝、出社したら、総務課長が来て、「ちょっとあっちで」と応接室に連れていかれました。
総務課長の第一声が、「聞いたよ。そういうとき、普通は嫁さんが辞めるんじゃないのかね」。出光興産は、今は知りませんが、当時は古き良き時代を引きずっている会社で、女性は結婚退職が当たり前。私のちょっと上だと、社外の女性と結婚してその人が仕事を続けると言ったら、「何が不満だ」と取締役3人に囲まれて2時間くらい説教くらったという先輩もいるくらいだったんです。
松本:へえ~。
井口:その代わり結婚すると給料がぐっと上がるんです。家族手当が多いので。
齊藤:そういうことか。
井口:本社に行くと、みんな結婚退職だから、女性は若いんですが、ときどき年配の人がいました。早く亡くなった社員の奥さんらしいです。若くして亡くなってしまったら奥さん困るじゃないですか。そういう場合は雇い入れる。
齊藤:ほんとですか。すごいな、それは。
松本:初めて聞きました、それ。
井口:ちょっと変わった会社でしたから、そもそも出勤簿がないのでいつどれだけ働いたのかの記録がない、だから残業手当はつかないし、有給休暇という考え方もない。でも労働基準法の関係があるから、一応、有給休暇の規定はどこかに書いてあるんです。一度、新入社員研修の研修係をやったときに人事の人に見せてもらった資料にはありました。労働基準法の文言がずらーっと並んで、その最後に「そのほか、上司が必要と認めたとき休むことができる」という一文が加わっていました。
それがあるから、大病した、大けがしたなどで、半年休んだとしても給与カットになりません。上司が必要と認めている限りは休める、つまり、それは会社が認めている休みなので。
うちわではよく「この会社でよかったね、と思わないで退職できたらそれが一番幸せだよね」と言っていました。ほかの会社だったら大変なことになっていた、というような事態にならずに勤め上げて退職できたら幸せだ、ということです。
松本:はあ。
井口:そういう社風の中で、うちは妻が仕事を続けているし、夫婦とも休みは週末しかないので、基本的に週末は仕事をしない。だから、「あいつは変わってる」「奥さんも変わってる」と社内でもよく言われていました。
そういうわけで、「うち普通じゃありませんから」と答えたら、総務課長も「まあ、そうだなあ」と納得していました。
松本:そうだなあ、ですか。
井口:実は総務課長は、借り上げ社宅の同じアパートに住んでいた時期もあり、それなりにうちのことを知っている、そんなこともあるので。家を建てたときの社内融資についても、「一括返済になるけど大丈夫なのか、返せるのか」と聞かれました。けっこうな金額が残っていたんですが、「返済のめどが立ったので退職の話をしています」と答えたら、「そこまで本気ならしょうがないな」ということになったようです。
さらに「会社は君への投資を回収できてないからね」「はい、わかってます、すいません。子どもが小さい間は残業のない部署に飛ばしてくれるのなら、保育園に預けて迎えに行けるので退職せずに何とかなりますけど、そういう話はないですよね」「うん、ないなあ」という話をしました。
無理をすれば退職せずにしばらくは続くかもしれないけれど、そのうちどうにもならないときが出てきて、子どもを放っておけないから帰らざるをえない。そうなれば、まわりに迷惑をかけて、険悪になって結局辞めざるをえなくなるという未来しか見えない。「そうなる前にきちんと引き継ぎをして、円満退職でやめたほうが自分にとっても周りの人にとってもいいじゃないですか」ということで、総務課長との話は終わりました。
そこから総務課長は円満退職になるよう手続きを進めてくれました。ありがたいことです。
●なかなか理解されなかった退職理由
井口:普通は総務課長がOKしたらそれで話が終わるんですが、私の場合はかなり異例だったので、「本社の人事部が話を聞きたいと言っている」と本社に呼ばれました。
齊藤:よほど異例だったんですね。
井口:要するに、育児は口実だろうと。そんなことで辞めるとは信じられない、本当は部内で言えないような何かがあるんじゃないかと、どうもそういう疑いをかけられたらしいです。
松本:なるほど。
井口:本社の人事部に行くと、「辞めるそうだね」「はい」「なんで?」と聞かれたから、子どもが生まれて、妻と共働きで家の中でやりくりがつくようにするためには夫婦どちらかが辞めざるをえないなどとさまざまな事情を話して、私が辞めてほかの仕事をするほうがいいんじゃないかということになったので……とひと通り説明を終えて黙ったら、「で?」とさらに聞かれました。
齊藤:理解できないんでしょうね、きっと
井口:そこまでは建前の話だろ、という感じで。
齊藤:ああ、そういうことか。
松本:本当は違うんでしょ、と。
井口:「それは聞いたよ」ということだと思うんです。
齊藤:「で、本音は何?」と。
井口:「だからこれが本音なんですけど」「ええ~!?」みたいな話になりました。
その後、辞めるまでのあるとき、休憩していたら常務取締役が来て、「最近不況で、会社を辞めて路頭に迷っている人が世の中にいっぱいいる。なにもこんな時に辞めんでも」という話をされました。慰留されたってことなんでしょうね。
常務と二人で話をしたのはあのとき一回だけだったような気がします。本社の大部屋だけで100人はいて、その他各地の支店とか研究所など300人くらいのトップで、私はヒラですから、基本的に直接話をするような相手ではないんです。
そう言われた時には「もともと辞めようと思って計画を立てて会社を辞めるんだったら、もうちょっといい時期を選ぶこともできますけど、理由が理由なのでどうにもなりません。好景気で会社を辞めてもいろいろな仕事ができそうだ、というならそのほうが良かったんですけど」という話をしました。
●退職前の多忙な日々
井口:退職前には担当業務の引き継ぎがあって、社内だけではなく外部に対しても挨拶に回りました。あちこち後任の担当者と一緒に行ったんですけど、そのうちの1カ所で、「出光にいても副社長になるのは難しそうなので、社長になることにしました」と言ったら大笑いされました。というのは、この会社にはときどき顔を出して、仕事の話を含めいろいろ雑談をしていたんですけど、一度、「副社長って、なるの大変だよね、社長になるほうがよっぽど簡単だよね」という話をしたことがあったんです。
自分で会社をつくったら社長になれるけれど、副社長は会社をつくってもなれない。社長がいないと副社長は置けないといっても、社長と副社長しかいない会社ってちょっとないじゃないですか。社長がいて社員がいて、ある程度大きくなってきたら役員もいて、常務とか専務とかがそろったら副社長を置く、みたいな感じで、副社長は会社がけっこう大きくないと置きませんよね。だから「副社長になるのは大変だよね」とだいぶ前になにかの時にしていたんです。それにひっかけて「社長になることにしました」と言ったら、向こうもすぐ思い出してくれて大笑いになって、同行した私の後任の人だけがキョトンとしていました。
退職のころのエピソードとしては、このほか、二足のわらじ時代に最初に翻訳の仕事を始めた翻訳会社から石炭関係のレターの翻訳を頼まれたところ、これがびっくりの内容だったというのがあります。
アメリカの石炭鉱山開発で、そこの権益に参加している日本の会社とアメリカ側がやりとりしているレターでした。実は開発前、出光興産もそこの権益を買って参加するかしないかという話があり、出光デンバー事務所の所長は、「アメリカはなかなかこういう案件がない。やっと見つけた案件でこれを見送ったら次はいつあるかわからない。絶対にやるべき」という意見でした。部内も基本的に賛成の雰囲気だったなかで、私だけが一人、「絶対うまくいかない」と反対しました。そして最終的に出光は見送ることになり、日本のほかの会社が買いました。その少しあとにデンバー所長が東京に戻ってきて、私の隣の机に座ったんですけど、なにかというと「あれは君が反対するから流れたけど、あんな案件は二度とないぞ」とブウブウ言われていました。
それが結局、開発がうまくいっていなくて、アメリカの開発会社と日本の会社の間で大もめにもめていることが、そのレターを見ると明らかでした。日本の会社は必死になって手を引こうとしていて、アメリカ側はなんとか手を引かせないようにしようとしている状況がありありと見えるんです。
齊藤:面白いですね。
井口:ほれ見ろと思ったけれど、さすがに、そういう状況になっています、とそのとき社内で言うのはまずいだろうなと思いました。だから黙って辞めました。それから半年後くらいに業界紙に小さく、そこが鉱山開発から手を引いたという記事が載ったのを見ました。
しかし、あのレターをライバル会社の私に発注するのはまずいですよね。守秘義務的に絶対に問題が出る。私が関与していたって知らなくても、なにがしかの利害関係がある可能性があるんだから、私に出しちゃいかんでしょ、と思いましたね。
●退職翌日から
井口:1997年12月、長男が1歳になったときに妻が職場復帰しました。最近は知りませんが当時は、育児休業は子どもが生まれた日から1年間なんです。子どもの誕生日が復帰の日なんですよ。誕生日まで休みでいいと思うんですけどね。
松本:誕生日が復帰の日なんですね。
井口:そう、誕生日は子どもを置いて朝から仕事。それはないだろうと思うんだけど、とにかく12月に妻が職場復帰をしました。私は翌年の1月20日で会社を辞めています。出光興産の場合、円満退職の日は20日なんだそうです。妻の復帰に合わせて辞められればよかったんですけど、12月いっぱい出光興産が幹事社の仕事を担当していたので途中で放り出すわけにはいかず、1月20日をもって円満退職しました。
井口:1月21日から専業の翻訳者という立場になるので、その1カ月くらい前から「もうすぐ専業になります」と取引先の翻訳会社などには伝えてありました。そうしたら退職の1週間くらい前からどんどん打診が増えて、退職翌日から外を出歩くひまがないほどでした。
齊藤:すばらしいですね、それは。
井口:専業になるときに、椅子や机、パソコンなど、とりあえず家にあるものじゃなくて、ちゃんと仕事に耐えられるものを年末年始の休みに準備しようと思っていたんですけど、会社の仕事がとにかく終わらない状態でバタバタしてしまいました。結局、環境を整えるひまが全然ないままに専業になり、椅子や机などをそろえるのに3カ月くらいかかって、4月か5月にやっと整いました。
●専業化にあたって立てた長期目標
井口:専業になったのは38歳のときです。専業化にあたって、長期目標を決めました。
自分はどういう翻訳者になりたいのか、最終的に何を目指すのかを考え、「60歳を過ぎたらわがままな翻訳者になる。やりたいと思う案件をやりたい量だけ、やりたいタイミングにやる」というのがこのとき立てた長期目標です。この仕事は面白くなさそうだからやらない、タイミングが悪い、このところ仕事が続いたらしばらく休みたい、だから断る。そんなわがままな翻訳者でも仕事が次々くるようにならないといけない。そのためには実力が必要です。
だから40代はがむしゃらに仕事をして基礎を作ることにしました。訳し方の実力はもちろん、どことどういうふうに付き合い、どういう形で仕事を組み立てるのかといったビジネス的な意味でも基礎をつくることに注力しようということです。
50代は、40代にいろいろなことをやったなかで、60代になったらこのへんをやろうと先を見通して、ある程度絞っていく時期。そういう大まかな計画を立てました。
あと、産業系の仕事をする基本方針を、「いいものを出して高く買ってもらう」としました。ほかよりも高かったけど最終的には満足できたという評価を目指すということです。独立初期に産業系の仕事をソースクライアントから取ろうと営業をしてまわったときに使っていた名刺があるんですけど、裏面読めますか。
齊藤:「コスト削減、事業成功 お手伝いします」とありますね。
井口:「コスト削減のお手伝い」というのは、うちは高いよ、でもそのあとに要らない手間はかからないから、そこまで含めて考えればコストは十分に下がるはず、ということなんです。
松本:「不要なコストが発生することはありません」と書いてありますね。
井口:それを売りでやっていこうということで名刺を作って、ずっとそのまま使っています。最近はその名刺もあまり使わなくなっていますけど。
とりあえずスタートしたときは、自分にどれだけの力があるのか、外から見たときにどう評価されるのか、どのへんまでいけるのかを確かめてみて、自分が最終的にやりたいのはどこなのかを考えていこうと思いました。
お金がいくらもらえるのかは、外から見た評価の指標になります。この人にだったらほかよりも高くても出したいと思うのか、ほかよりも安ければこの人がいいかなという話になるのか。そういう評価の指標なので、「産業翻訳についてはお金を判断基準に高く評価してもらえることを当面目指す」というのがスタート時に立てた目標です。結局、産業系はほぼそれで来た形でしょうか。
内容についてはけっこう変化しています。最初は技術系の論文などからスタートして、だんだん柔らかいほうへ移っています。最後はマーケティング資料やウェブ記事などが増えていますが、それはお客さんが高く払える状況にあって、いいものには高く払ってもいいというお客さんがいるところを探していたら、だんだんズレていった結果なんです。
松本:もともとのお客さんが払えないと、翻訳者に回ってきませんからね。
井口:私の場合、「もともとのお客さん」と仕事をするのが基本でした。それも最初からの方針で、1月20日に退職したあと急いで準備を進め、3月3日には法人を設立しています。
直接にせよ何にせよ、払えないものは払えないので、予算をある程度持っているところじゃないといけないし、それを自由に使えるところじゃないといけない、ということですね。
松本:法人化してからも、直受けの仕事以外に、最初に登録した翻訳会社からの仕事も受けていたってことですか。
井口:そうです。状況に応じて、ある程度は。(次回に続く)
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◎プロフィール 井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye 翻訳者(出版・実務) 1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。 2005 年からは出版翻訳も手がけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。 ◎インタビュアープロフィール 松本佳月(まつもと・かづき) 日英翻訳者/JTF ジャーナル編集委員 インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle 版、2022 年)。 齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito 実務翻訳者 電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネータ、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。 |