日本翻訳連盟(JTF)

「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編

第 11 回:超大型案件に忙殺された一年

スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰する YouTube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介します。井口さんは大学卒業後、一般企業に就職。2年の社内留学後、正社員として働きながら副業翻訳で自らの実力を確認し、1998年に専業翻訳者として歩み始めました。第 11 回は、超大型案件の翻訳プロジェクトに忙殺された1年間のこと、翻訳フォーラムのマネージャーになって始めたことについてお話いただきました。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)

大型プロジェクトを受注

井口:1999年2月に二人目の子どもが生まれ、妻が1年間の育児休業に入りました。そしてそのころ、ソフトウエアの日本語マニュアル作成プロジェクトという超大型案件を受注しました。

この案件は前にいた研究室の紹介です。研究室が使っていたソフトウエアが、世界的にはトップシェアを握っているのに、メジャー市場の中で日本だけが2位だったんです。反対に世界的には2位なのに日本では1位のものは、マニュアルなどが全部日本語化されていました。そこで、そのソフトウエア会社の日本支社長が、やっぱり日本語版が要るんじゃないかと考えたらしいのです。それを聞いた研究室の先輩が、「うちの研究室にいてこのソフトもよく知っている者が会社をやめて翻訳者をやっているので、声をかけてみては」と推してくれ、その仕事のコンペに参加できることになりました。

トライアルと見積もりを出したところ「御社が一番高かったけど品質は断トツによかったので御社でいきます」と言われました。ちなみに、そのときむこうの社長さんが持っていたファイルには大手翻訳会社の名前が3社ほど書かれていました。

松本:おお~。

井口:その仕事は翻訳だけでなく、DTPからマニュアルの印刷・製本まで一括受注しました。翻訳だけを受注する手もあったんですが、英語版がLaTeXというマークアップ言語で書かれていたんです。ファイルを日本語に書き直したら、あとはレイアウト調整くらいで日本語版のDTPもできてしまうはずなので、DTPまでまとめてやるのがいいでしょうねということになりました。

それでも印刷・製本は、印刷所に出してもらう選択肢があったわけですが、お客さんも助かる、こちらは儲かるというwin-winにできそうだと受注することにしました。
あのころの印刷は版を作るのにすごくお金がかかってました。特殊なソフトでマニュアル自体そんなにたくさん出すものではないので、お客さんとしては少部数で印刷したい。けれど、安い版は使い捨てなので、少部数のたびに版を作っているとすごく高くつく。あれこれ調べたところA4サイズ1枚の印刷コストが7~8円はかかる時代に0.1円くらいですむプリンターがあったので、オンデマンド印刷にしたらいいだろうと思ったのです。製本も穴を開けてバインダーで綴じる簡易製本でよいということだったので。

齊藤:なるほど。

井口:正確には覚えていないのですが、プリンターが60万だか80万円だかくらいでした。その経費を考えても、初回ロットでトントンまでいくので、そのあとは儲けが出るはずだと踏み切った次第です。

あらかじめ印刷会社に見積もりを取って金額を把握したうえで、お客さん側には「通常、小ロットだと1部あたりの印刷代が割高になりますが、10部、20部程度でも印刷会社に200部出すのと同じくらいの印刷代で納めます。よろしければ印刷会社の見積金額を聞いてみてください」と交渉しました。
紙は、安く仕入れられたほうが儲けも大きくなるので、紙問屋から買いました。どうやってみつけたか覚えていないのですが、はじめ紙を買いたいと申し入れたら、小口の取引はしないと言われました。問屋ですからね。で、「1回の発注ロットがだいたい○○枚くらいなんですけど」「場所はどこですか」「こういうところです」「発注してすぐ持ってこいと言われると困りますが、1週間以内とかで、近くの顧客に行くついでに回るという形でよければお売りします」「十分です」ということで交渉成立しました。

このプロジェクトはすごくたいへんでしたので、翻訳会社の仕事は断ることがめっきり増えました。ほかのソースクライアントとの取引も始まったので、2年目はソースクライアント直の仕事が95%くらい達しました。翻訳会社経由は、関係がいいところや面白そうな案件があるときだけやるようにしていました。

松本:翻訳はBuckeyeさんひとりでされていたんですか。

井口:ひとりではとても終わりません。

松本:じゃあ何人かで。

井口:はい。翻訳フォーラムの仲間に声をかけて、何人かに手伝ってもらいました。翻訳フォーラム関係で頼める仲間がいたので助かりました。このプロジェクトは外注費だけで1000万円くらい出ています。私が一番たくさん訳しましたけど、それでも。翻訳会社経由の仕事は、この年はたぶん売上で200万円くらいしかやっていないです。

翻訳フォーラムのマネージャーになる

井口:そのプロジェクトが始まった1999年の4月に、翻訳フォーラムのマネージャーになっています。97年にサブシスというスタッフになったので、その2年後です。文芸系の方だった前のマネージャーが、自分は文芸の翻訳フォーラムを立ち上げるから、産業系が多い翻訳フォーラムのほうは誰か産業系の人がやってよ、という話で、スタッフで集まって後任を相談しました。

このときに、高橋さきのさんがいろいろまとめてきていました。当時はインターネットが登場したころで、パソコン通信で翻訳フォーラムをやっていた我々からすると、「インターネットとかいうものがあるらしい」「パソコン通信からゲートウエイを通ってその先にあるらしい。行ってみたいけどかなり恐い」みたいな認識ながらも、パソコン通信は斜陽で、これからはインターネットの時代になりそうだとみんな思っていました。

そんな状況のなかで、パソコン通信の翻訳フォーラムとしてやれる限りのことをやって、パソコン通信の終焉とともに翻訳フォーラムもおしまいにするのがいいか。またはインターネットのほうへ打って出て活動を広げていくのか。あともうひとつの道を含めて、さきのさんが3種類の選択肢を提示して、それぞれこの道に行くならマネージャーはこの人、と候補を考えてきていました。

そのときに、まだ翻訳フォーラムの役割が終わったとは言えないんじゃないか、だから続けられる可能性のある道、つまりインターネットへ出ていく道を選ぶべき、というのがスタッフほぼ全員の意見でした。そして、その方向に行くならマネージャーは井口、という話だったんです。スタッフ歴が一番浅いのに統括者として全体をまとめる役割なので、「え、なんで私?」と思いましたが、引き受けました。

マネージャーになって、インターネット上に場所を作ったり、オンラインで宣伝したり、さまざまなことをやりました。コミュニティはまず人が集まらないとどうにもならないので、人を集めるために、翻訳関係の雑誌などから取材の申し込みがあったら必ずOKするという方針で、ほかのことはなんとかやりくりをつけて最優先で引き受けました。

雑誌などから、たとえば「金融系の特集を組みたいから、読者の参考になる金融系の翻訳者いませんか?」みたいな相談があると、フォーラム参加者の中から適任と思われる人に「こういう話が来てるんだけど、取材いい?」と声をかけて紹介する。すると当然、インタビューのときにフォーラムの話も出るし、私が出るときはマネージャーという立場でいろいろ話もできるわけです。結果的に業界内でどんどん有名になっていきました。

雑誌側からすると、ある程度現実を加味した正論、理想論をしゃべってくれるのが使いやすかったんでしょうね。実際あのころは理想論だとかよく言われましたが、マネージャーという立場で、あるべき姿とか、みんなが幸せになれる道を示す人間がいてもいいんじゃないかと思っていました。目指して動けばそれなりにできることを自分自身で体感していたし、人によってどれだけのものが手に入るかの違いはあるかもしれないけど、やればできる可能性はある、という正論、理想論を語っていました。
ただ、そういうことを言っていると、のちにいろいろ状況が悪くなったときでも、なかなかそれに反することはしにくいんですよ。自分自身に歯止めがかかったという面も正直あったと思います。基本的に私はダブルスタンダードって大きらいなので、人には言っていて自分は違うということはやれなかった。それが最終的にはいい形になったかなと思っています。

インタビューが掲載された『実務翻訳ガイド2001年度版』(アルク地球人ムック)(写真は井口氏提供)
死にもの狂いで働いた一年

井口:99年夏にはマニュアルプロジェクトが佳境に入りました。なんですが、このプロジェクト、最初に大波乱があったんです。スタートするころ妻が育児休業で家にいるようになり、とたんに、長男の保育園の時間が短くなってしまって。それがあって、スタートから遅れたんです。

松本:家に早く帰ってきちゃう。

井口:そうなんです。あれが予定外で、スタートで作業が2週間遅れると後ろは1カ月遅れるとかになるので、夏は間に合わせようとえらくたいへんなことになっていました。どうにもならなくなって、妻が子どもを連れて実家に2週間くらい避難してくれて、その間私は必死になって訳したなんてこともありました。子どもの面倒を見るために会社やめたんじゃなかったの、って話なんですけど。

松本:たしかに。

井口:しかも99年は子どもふたりとも中耳炎を2回ずつやって、数えてみたらふたりで延べ225回通院していました。

松本:1年でですか?

井口:はい。ふたり一緒に連れていったことも多いとはいえ、それでも110回以上、1年の3分の1は病院に行っているわけです。

松本:それはほとんどBuckeyeさんが連れていってるわけですね。

井口:ほとんど私です。子どもを見ていないとまずい状況でない時間は、立ったままでもずっと赤入れをやったりしていました。

松本:そうなりますよね、やっぱり。

井口:とにかくマニュアルのプロジェクトは、訳すのもたいへんだし、DTPもやってみるとうまくいかないとか、コンパイルしたらエラーになるとか、いろいろありました。さっきも言ったようにお金も外注費だけで1000万くらい出ていきました。量も多かったし、ワード単価もちょっと高くしていたので。

そのあと入社する営業兼コーディネータさんにもよく「井口さん、外注さんに払いすぎ」と言われました。でも「いいものを高く」することで開ける世界があるんだよ、という実例を業界の片隅でいいから作りたかったんです。高く売って安く外注に出して私のところが儲けるんじゃなくて、このマニュアルプロジェクトのように、高く売れたものはなるべく高く出すことにしていました。

でも、その外注費の支払いが4月か5月には始まるんですが、うちへの入金は12月なんですよ。

齊藤:それはたいへんだ。

井口:翻訳が全部終わって、検収されて、それでやっと翻訳料が出て、その次に印刷製本したものを納めてから、マニュアルの印刷製本分のお金が出る。

齊藤:資金繰りがたいへんですね。

井口:税金は差し押さえがかかるほどにならなければ滞納してもとりあえず問題ないので、あのころ税金は全部払いを止めていました。電気ガスは止まったら仕事ができないから払わないわけにはいかない。外注費も、お金が入ってきてないから待ってというのは言いたくなかった。ほかの仕事がパラパラあったので、その入金と外注費支払いのタイミングを見比べて、果たして間に合うんだろうかと常に綱渡り状態でやっていました。黒字倒産ってこういうことかというのがよくわかりましたね。要するに運転資金がないと最終的に儲かっても途中で倒れちゃう。

齊藤:回らなくなっちゃうわけですね。

井口:そうです。で、なんとか無事に、12月に入金になりました。この1年は死にそうなほど忙しい思いをしました。マニュアルの仕事だけでも忙しいのに、新しいお客さんともけっこう仕事をして、翻訳会社経由も多少ありましたからね。最終的に、この1年の売上は4000万近くになりましたが、あのペースで3年も仕事したら、当時くらいの若さでも確実に過労死しただろうと思います。

齊藤:4000万円ですか。マニュアルの売上はでかいから。

井口:今ふりかえると、子どもの世話もそれなりにしつつ、よくあれだけ仕事できたなと、われながら不思議なくらいです。とにかくすきま時間から何から、必死にかき集めてやっていました。終わったときはさすがに頭がおかしくなっていましたね、いろんな意味で。(次回につづく)

(「Kazuki Channel」2021/9/2より)

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←第 3 回:会社からアメリカ留学、最初の3カ月は苦労の連続

←第 4 回:英語漬けで猛勉強したアメリカ留学から帰国

←第 5 回:会社員と二足のわらじで翻訳者への第一歩を踏みだす

←第 6 回:育児問題をきっかけに専業への道を考え始める

←第7回:専業翻訳者になるために取引先と分野を広げる

←第8回:会社を退職して専業翻訳者になる

←第9回:専業翻訳者としての基本方針を決めて開業

←第10回:選択と集中―「やること」と「やらないこと」を決める

◎プロフィール
井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye
翻訳者(出版・実務)
1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。 2005 年からは出版翻訳も手がけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『イーロン・マスク』上下(文藝春秋、2023年)、『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。

◎インタビュアープロフィール
松本佳月(まつもと・かづき)
日英翻訳者/JTF ジャーナルアドバイザー
インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle 版、2022 年)。

齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito
実務翻訳者
電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネータ、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。
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