「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編
第10回:選択と集中―「やること」と「やらないこと」を決める
スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰する YouTube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介しています。ここまで、大学を卒業して、一般企業に就職。2 年間のアメリカへの社内留学後、正社員として働きながら副業翻訳で自らの実力を確認し、いよいよ専業翻訳者として歩み始めました。連載再開となる第10回の今回は、独立直後とリーマンショック直後の営業、育児との両立、仕事の選択、年収のことなどについて話が広がります。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)
リーマンショック後の営業
井口:翻訳専業になって、いろいろなパターンで仕事を請けてきましたが、後半はお客さんの紹介が多くなりました。「○社の△さんからご紹介いただいて」とか、仕事しているお客さんから「こういう話があるんですけどいかがですか」という話がきたりすることが増えたわけです。
リーマンショック(2008年9月)のときは、紹介を待ってのんびりしているわけにもいかない状況だったので、久しぶりに新規営業をやりました。当時、仕事でウェブ検索をしたとき、営業をかけたらいいんじゃないかと思えるところを見つけたら、メモを取っていたんです。この会社はけっこう翻訳を外注に出しているな、ここだったらある程度取れるかも、と思うようなところです。何十社かたまっていたそのメモを絨毯爆撃で当たっていくつもりでしたが、1社目で取引が始まったので、結局1社しか当たりませんでした。
松本:そのアプローチはメールとかですか。
井口:このときはメールですね。
齊藤:1発目ってすごいな。
井口:あれはラッキーでした。けっこうあちこちラッキーだったことが多いんですよ。
値引きはしない―選択と集中
井口:仕事のパターンとしては、基本的に値引きはしない方針でやっていました。ただ、今回は予算がないけれど、予算が潤沢にあるときにそのぶん補填する、というようなお客さんもいました。
「今回予算がないので、ちょっとどうにかなりませんか」「そういう言い方だとわからないでしょう。具体的にいくらなら出せるんですか。出せる金額でいいですから」というようなやり取りをして、いつもの半分の額でやったりするのですが、後日、「今回は予算があるんですよ。この間の分、まだでしたよね。上乗せして請求してください」と言って埋め合わせしてくれていました。
齊藤:いいお客さんですね。
井口:また、最初のころだと、仲間で何かトラブルがあって困っていると泣きつかれたりしたときには、「いくらもらってるの? その金額だけくれたら手伝ってあげる」ということで、普段自分がやっている3分の1とか4分の1の値段でやったこともあります。
お金を稼ぐための仕事とちょっと位置づけが違いますから、そういうのは例外です。基本的に仕事としては、値引きはお断りしました。それは長期目標から外れるので。
新しいお客さんと値段の話になって、「安くなりませんか」と言われたら、「安いのをお望みでしたら、うちの半額以下で簡単に見つかりますよ。そちらに行かれたらいいと思いますよ」と返していました。
齊藤:その通りですね。
松本:Buckeyeさんに頼む必要ないですよね。
井口:「内容がわかればいいから、安くしてもらえない?」みたいな人もいましたね。
松本:ちょっと失礼ですね。
井口:失礼かどうかというのは置いておいて、「そういう話でしたら私がやる必要はないじゃないですか。それでやります、という人はいくらでもいるので、そちらを探していただくのがいいと思います」と言ってお断りしていました。
あとは、翻訳関連の業務でDTPまでやったこともけっこうあります。その場合は換算時給が翻訳と同じくらい。定期的な仕事だと時給で2万円くらいのイメージですね。そのくらいになるような値段設定で見積もりを出して、OKならやることにしていました。
あのころ大事にしていたのは、「選択と集中」です。「何をするか」と同じくらいに、「何をしないか」が大事。やることは絞っておく。やらないことを決めて、やらないことの話がきたら「それはうちはやりません。やるところはほかにいくらでもあります」とお断りしていました。
独立前後はベビーシッターを頼んで
井口:時間が遡りますが、独立したのが1998年の1月20日。3月3日に法人を設立して、4月に長男が1歳児で保育園に入りました。前にお話したように、うちの家族が住んでいる地域では、当時、1歳児の保育園入園が激戦でした。
親の働き方による点数制で、最高点が100点。1歳児は100点でも半分以上落ちるので、99点の人は可能性ゼロという状態でした。ちなみに家で仕事をしていると職住同一でマイナス5点という規定があるので、95点が最高でした。
第一子のときは、申請書を出すときには私はまだ会社員だったんです。だから会社員で通勤してますと書いてOKでした。夫婦ともに遠距離通勤で申請を出しているので、かなり可能性は高いと思ったんですけど、案の定なんとか激戦を通りました。
齊藤:タイミングですね。
井口:ちなみに12月から3月いっぱいは基本的にベビーシッターさんを頼みました。朝、シッターさんに来てもらって、子どもを預けて、私は玄関から出ていって、家の裏側にあったドアから仕事部屋に入って仕事をする。夕方には裏口を出て、表玄関から「ただいま」と帰ってくる。そこにいることがバレるとまずいので、あくまで外に行っているふりをしていました。妻のお母さんもたまに来てくれていましたけど、シッターさんにしょっちゅう来てもらっていたので、月30万円くらいかかっていました。
松本:毎日シッターさんに来てもらっていたらかかりますよね。
井口:それは必要だから、しょうがないので。
松本:シッターさんに来てもらっていたのは保育園に入れる前ですね。
井口:はい。保育園が始まってからは、それなりに外に出られるようになって、ソースクライアントへの営業を開始しています。でも営業はなかなか実らないので、最初の年は95%が翻訳会社経由の仕事でした。二足のわらじのときに付き合いを増やした翻訳会社各社との仕事のボリュームが増えて、そのまま続いていく形でした。
各種イベントに積極的に参加
井口:あのころは本当によく出かけていました。スーツを着て営業に出ていることも多かったし、いろいろな意味で情報収集しておこうと、さまざまなイベントに顔を出していました。
JTF(日本翻訳連盟)も会員として入って、翻訳祭や総会、セミナーにも参加しました。また、夏の終わりにテクニカルコミュニケーター協会のイベントにも初年度は出ています。最近は出てませんけど。翻訳者のオフ会は、もちろん、翻訳フォーラムのオフ会も出ていましたし、翻訳フォーラム以外の集まりもあれば出ていました。
あとは、翻訳者以外のいろいろな分野のフリーランスの人が集まる会が時々ありました。テクニカルライター、デザイナー、また当時だと文字入力の人もけっこういました。そういういろんな仕事の人たちが集まる会合にもよく出ていました。
懇親会も基本的に出るので、テクニカルコミュニケーター協会のイベントなどで夜に懇親会がある日は、妻に子どものお迎えを頼んだり、翻訳フォーラムのオフ会などは子どもを連れて行っていました。うちの長男の赤ん坊時代を、当時のフォーラム常連さんは何人も見ているんですよ。抱っこしてもらったりしていました。
松本:今はもう大学生でいらっしゃいますね。
次男妊娠を機に事務所を借りる
井口:1998年、退職した年の夏に次男の妊娠がわかりました。出産予定は翌年2月。あの当時、我々の住んでいる市で、共働きで2月に子どもが生まれると言うと、「何考えてるの?」と言われるというのに、です。
松本:保育園に入るタイミングが4月だから、ってことですか。
井口:そうです。2月出産ということは、0歳児としては入れない。申請を出す時点ではまだ生まれていないから、申請が出せない。2月生まれは1歳児入園しかできないんです。
松本:ああ、そうか。
井口:うちが通っていた保育園、1歳児は年齢別で前半と後半に分かれていました。4月生まれから9月生まれまでが前半のはずなのに、実際には、6月くらいまでしか前半側にはいない。せいぜい7月前半までですね。つまり、みんな、ほぼ1年間育児休業を取って、1歳になる直前の4月1日から0歳児で入れるようにと5月生まれをめざすんですよ。
4月に産むつもりがちょっと早く3月に生まれたら悲惨なことになるから、狙うのは5月がベストなんです。5月ならちょっと早くても4月ですし。で、5月に産むつもりが6月になるケースもまあある。というわけで、共働きの家庭は保育園入園を考え、5月をピークに、4、5、6、7月くらいに生まれるところばかりだったわけです。うちは、それをわかっていながら12月と2月の出産だったという。
松本:そんなに予定通りいきませんからね。
井口:そうなんですよ。それにしても2月は最悪です。これで次男は1歳児枠での入園申請が確定しちゃったわけですが、さっき言ったように職住同一でマイナス5点ですから、1歳児入園は無理です。3歳になると、幼稚園が始まってそっちへ抜ける人たちがいたりするので枠も広がるんですけど、1歳2歳は無理――というのでは困ってしまいますから、夏に妻の妊娠が判明して、その秋、駅前に事務所を借りました。
齊藤:なるほど。
井口:これでマイナス5点問題はクリア。ちなみに、次男の保育園申請を出したときには市役所の人が確認に来ました。本当かどうか、住所だけ借りているんじゃないかとチェックに来たのでしょう。
事務所を借りるのはもう少しあとでもよかったんですが、物件を探したらちょうど適当なのがあったので。事務所に使える物件がほとんどない駅なので、「あとで」と言っていると借りられないかもしれない。あるときに借りてしまえと、秋に借りてしまいました。
年収の話
井口:ほぼ専業になった初年度の98年は、実質11カ月強、ほとんど翻訳会社経由で仕事をして、売上が月平均100万円ちょっとでした。
松本:へえー。
井口:びっしり仕事をしたらそれくらいいくでしょという話です。
松本:たしかにある程度レートが高くて、びっしり仕事があればいきますね。
井口:翻訳会社各社の最高レートくらいで、仕事が途切れずあればそのくらいはいきますよ。収入の話は、自分がしっかり仕事をしているときだといろいろ差し障りがあるのでボカしてましたけど、「いくものはいくんだよね、どう計算したって」って話です。
松本:実際、いっている人はけっこういますしね。
井口:はい。で、そういう人同士は、そういう話をよくするんです。
ある人は、「800万円を超えたあたりから売上を言わなくなりました」と言っていました。言うと、陰であれこれ言われたりということが起きるようになって、ボカすようになったと。たぶん私と話をしたころで、その人は年収1000万円くらいだったと思います。
あとは、よく稼いでて仲のいい翻訳者3人でときどき飲んでいたんですけど、この3人で集まったときの話では、「年間の売上高は1500万くらいがいいよね」と言っていました。
松本:翻訳だけで、ということですよね。
井口:そうですね。そのくらいあるとお金の心配を全然しなくていいし、それ以上増えるとこなすのが大変になってくる。「でもここで調整するのが難しいんだよね」という話も出ていて。実際に僕は聞いていないしこちらも言ってはいないんですけど、言い方からして、3人が3人ともその水準をはるかに超えていたと思います。それくらいだったらそれなりに余裕があっていいんだけど、実際は忙しいなあという話です。
齊藤:その領域にいるのはたぶん、翻訳者全体の2~3%くらいの人ですね。
松本:そう思います。(次回につづく)
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井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye 翻訳者(出版・実務) 1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。 2005 年からは出版翻訳も手がけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。 ◎インタビュアープロフィール 松本佳月(まつもと・かづき) 日英翻訳者/JTF ジャーナルアドバイザー インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle 版、2022 年)。 齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito 実務翻訳者 電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネータ、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。 |