「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編
第13回:書籍『実務翻訳を仕事にする』を出版
スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰する YouTube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介します。井口さんは大学卒業後、一般企業に就職。2 年の社内留学後、正社員として働きながら副業翻訳で自らの実力を確認し、1998年に専業翻訳者として歩み始めました。第13回は、翻訳フォーラムでの連載「二足の草鞋の履き方」講座の書籍化、出版の経緯をお話いただきました。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)
翻訳フォーラムの連載をまとめて本を出版
井口:1998年10月から2000年6月まで1年8カ月、翻訳フォーラムの会議室に「Buckeyeさんの『二足の草鞋の履き方』講座」というタイトルで、連載記事を寄稿したところ最終的に本1冊分くらいの分量になり、みんなに「本にしたらいいのに」と言われました。そう言われてもどうやったら本を出せるのかアテもなく、翻訳の雑誌で編集をしていた人に教えてもらって、出版社に持ち込んでみたりしました。
最初に持ちこんだ出版社からは「うちが出す本ではない」と断られたものの、「内容的にはいいと思う。他社から世に出ておかしくないと思います」とは言ってもらえました。そのころ、フリーランスとか「SOHO」というのが流行り言葉になっていましたし。
松本:ああ、はい。
井口:ちょうどそのころ、「会社員をやめてSOHOとして働く人の本を書きたい」という人がいて、何人か取材対象を紹介してほしいということで、SOHO系の知り合い経由で私が取材を受けたんです。そのときに、「本を書くのって大変ですよね。実はこういうわけで1冊分くらいの量を書いて、内容はいいと言われているんですけど、どこに持っていったらいいかわからなくて」という話をしたところ、宝島社新書の編集者を紹介してくれることになりました。
そのお正月明け、たしか仕事始めの日の朝に、目次と原稿を一緒につけて送り、「こんなわけで原稿があるので、一度会ってお話させてほしい」とメールをしました。するとその日の夕方に、「編集会議にかけました、3月に出すことが決まりましたので、急いで打ち合わせに来てほしい」と連絡がありました。
松本:はあ。
井口:どうやら何かの企画が飛んでしまって、本にする原稿が足りなかったらしいです。もう1月になっていて3月に出すから、いまから本1冊分の原稿を書いたんじゃ間に合わないというところに、原稿があって内容的には悪くない、ということで編集会議に通ったようです。
松本:留学のときと同じで、ナイス・タイミングですね。
井口:それで急いで打ち合わせに行き、正式に宝島社新書として出すことになりました。「時間はあまりないので、けっこう詰めてやります」ということで、原稿受け渡しは担当の編集者がうちの最寄り駅の改札まで来てくれました。送ると1日かかるじゃないですか。ゲラが何往復かするから、行って返ってが3回あったら、それだけで1週間くらい違うわけです。その時間がもったいないということで直に受け渡ししていました。
本にするときは、翻訳フォーラムの会議室での連載のときとは違う章立てになったので、とにかく時間がなく、いろいろとバタバタでした。ちなみに当時の会議室での連載は、現在もWeb上に残っています。
松本:そうなんですか?
井口:はい。いまの翻訳フォーラムのサイトに「ニフティ・翻訳フォーラムアーカイブ」というリンクがあり、そのアーカイブに飛ぶと、翻訳フォーラムを閉じたときのトップページが残っています。リンク先がパソコン通信だったものは全部リンク切れを起こしていますけど、web上に置いてあったもので、著作権上問題がない記事や、許可をお願いしてその後も置かせてもらえた記事は読めます。
その中に「Buckeyeさんの『二足の草鞋の履き方』講座」というのが残っています。それが元原稿なんです。もともと「二足」ということで始まったので、そういう章立てで考えて連載していたものを、一般向けに章立てを大幅に入れ替え、それに合わせて修正をかけたりして、『実務翻訳を仕事にする』(宝島社新書)という本になったわけです。
実現しなかった続編
井口:いま考えても原稿があがってから2カ月で本を出すって、相当タイトだと思いますけど、とにかくバタバタで大変でした。でもなんとか本になりました。けっこう、ああいう本ってないんですよね。
松本:ないですよ。
井口:あのころも全然なかったし、初版は売りきっています。新書は、あのころ、初版が1万5000部かな。けっこう多いんですよね。ただ重版をかけるかというと、残念ながらそこまでじゃないということで。宝島社からは「続編を書くなら流用してもらってかまいません」とは言っていただいていて、実際に書こうとしたことが何回かあります。
実は日外アソシエーツから出すということで、日外さんのメルマガでしばらく連載をしていました。その原稿をためて調整をかけたものと宝島社の本の書き直しも含めて『実務翻訳を仕事にする』の新バージョンにしようという話があったんです。山岡洋一さんの『翻訳とは何か: 職業としての翻訳』も日外さんで、そちらが精神的なバックボーンなので、もっと現実的な仕事としての翻訳を語る本として出そう、という話だったわけです。
齊藤:出してほしいなあ。
井口:なかなか書き続けられないんですよ。物書きの人ってすごいなと思います。
あの本、内容的に古くなってしまっている部分も多く、改訂するのはそれなりに大変なんです。さすがにいまはポケベルがどうとか言うと、「何それ?」って世界になったりしますからね。
私が二足だったころは、携帯電話もすごく珍しかったし、それもあってインフラが貧弱でした。たとえば私がいた会社のオフィスは、窓際なら電波が入るけど、オフィスの真ん中あたりだと入らなかったんです。でもポケベルだったら真ん中へんの机の中でもちゃんと電波が届きます。だからポケベルに連絡をもらい、ちょっと外に出て折り返し携帯電話で連絡するというパターンを取っていました。公衆電話だと遠くまで行かなければならないので、あのころだったら、このやり方がたぶんベストだったと思うんです。
齊藤:テクノロジー的なことはかなり変わっちゃっているので、それは通用しないですよね。でも根幹にある考え方の部分については全然古さがないので。
井口:基本的に、仕事ってそんなもんですよってことですよね。
齊藤:そうですよね。
松本:これ、目次を見ただけで絶対みんな読みたいだろうなって思いますもの。これ一冊あれば、全部書いてあるから。
齊藤:だから続編がほしいです。
松本:仕事の断り方とかまでありますよ。税金対策から。
齊藤:そうそう、そういうのが非常に大切なんですよ。
井口:そのころには気づいてなかったこともいまでは気づいていて、ブログやなんかではちょろちょろ書いていることとかもあるんですよ。
松本:Buckeyeさん、出しましょうよ。出してくださいよ。
井口:そういうものを出せるといいと思うんですけどね。
『実務翻訳を仕事にする』は、初版を売りきって、古本が出はじめた最初のころは、定価よりも高かったんですよ。定価より高い値段で中古が売られて、それが売れていたんです。
松本:だって買いますよ。
井口:ほかに類書がないから売れていたみたいです。新刊は定価が決まっているけれど、中古は自由に値付けができるから高く売られていて、「ええ~」と思ったけど、時々見ていると「売れてるなあ」という感じでした。
松本:いまはもう手に入らないですからね。
井口:書きたいとは思うんですけどね。でも続編を書くのはちょっとたいへんなんですよね。(次回につづく)
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◎プロフィール 井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye 翻訳者(出版・実務) 1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。 2005 年からは出版翻訳も手がけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『イーロン・マスク』上下(文藝春秋、2023年)、『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。 ◎インタビュアープロフィール 松本佳月(まつもと・かづき) 日英翻訳者/JTF ジャーナルアドバイザー インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle 版、2022 年)。 齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito 実務翻訳者 電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネータ、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。 |