「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編
第15回:出版翻訳をてがけ始める。リーマンショックでは大きな打撃
スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰する YouTube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介します。井口さんは大学卒業後、一般企業に就職。2年の社内留学後、正社員として働きながら副業翻訳で自らの実力を確認し、1998年に専業翻訳者として歩み始めました。第15回は、ソースクライアント直と翻訳会社経由の仕事のバランス、途中で断った案件のこと、日本語文法の学習と初めての出版翻訳『iCon』(スティーブ・ジョブズの非公認伝記)、リーマンショックの影響などについて伺いました。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)
日本SOHOセンターの副理事を務めたことも
井口:2003年4月に、日本SOHOセンターというところの副理事長になっています。
齊藤:SOHOですか。
井口:スモールオフィス、ホームオフィスってやつですね。
松本:はやりましたよね。
井口:はやりましたね。独立したあとしばらく、翻訳と関係のないさまざまな仕事をしているフリーランスの集まりにもよく出ていたのですが、その関係なんです。
最近、FacebookとかTwitter(現X)あたりで、フリーランス協会というのがあって、活動しているじゃないですか。あんなふうなことを実は20年くらい前にやっているんです。いろんな業種の人が集まって、健康保険とかフリーランスのためのあれこれができないかということで、日本SOHOセンターというものを設立するので、その副理事長にと要請されて、就任しました。
ですけど、さすがに手が回らなくて、やはり翻訳関係に集中しますということで、2005年に退任しています。
ソースクライアント直取引の難点
井口:このころはお客さんの紹介が営業の中心になっていました。ソースクライアント直が多かったんですけど、ソースクライアント直はどうしても仕事の波が大きくなります。
それぞれのお客さんで仕事があるときはボーンと出てくるし、けっこう急ぎで、みたいな話になることが多くて、重なるとピークがすごいことになる。2社くらいなら無理すればなんとかなりますが、3社話が重なったらちょっと時間的に不可能ということになりかねないので、取引先をあまりたくさんにはできない。そうすると谷が深くなります。がんばればなんとかなる限界まで山を低く抑えると、谷がどうしても深くなる。ですから、きつくても断れないソースクライアント直ときつければ断れる翻訳会社経由の半々くらいがいいんじゃないかなと思っていました。
というわけで、ちょっとご縁があった新しい翻訳会社と2003年に新たに契約を結んでいます。そこも基本的に「いいものを高く」という方針でやっているというお話でした。たしか2003年にJAT(日本翻訳者協会)が横浜でやったIJET(英日・日英翻訳国際会議)で出会った翻訳会社です。こことはこのあとけっこう長い間仕事をしました。
そのほかにもJTFが作った会員の翻訳者名簿があり、翻訳者の理事が登録してないと「みなさん、登録してくださいね」と言えないということで、一応登録していました。それを見て翻訳会社さんから「うちの仕事しませんか」という話がときどき入っていました。
ですけど、「翻訳会社向け単価は1ワード20円なんです」というと、そこで話が終わってトライアルまで行かないんです。「うちの売りより高い」と言われたこともあります。「ソースクライアント向けには35円で売っているので、35円で売ってきてくれれば20円で仕事しますけど」と言っていたんですけど、残念ながら、じゃあがんばってみます、というところも現れませんでした。
「危なそうだ」という感覚が大事
井口:2003年に、翻訳者仲間が防衛系のマニュアル的な案件を持ち込んできたことがありました。たしか45万ワードで報酬1000万円だったかな。ひとりでできる量じゃないし、金額的にあまりいい話でもない。でも持ち込んできた仲間がやりたいということだったので、もうひとり引き込んで、3人でやることにしました。
誰かが最後にまとめて全体を統一するとなると、その人がすごく大変になってしまうし、その分お金を渡してあげなきゃいけない。すると訳すだけの人は報酬が安くなりすぎてしまうので、3人で連絡を取り合いながら統一しつつ、自分の部分の担当はそれぞれ責任を持つという形でやることにしました。
クライアント側としては法人相手に発注したいという話で、3人のうち私とあとから引き込んだ人が法人を持っていたんですが、どちらかと言えば最初に動いていた私のほうだろうということで、私が窓口になりました。
ところが、この仕事は途中で話が変わったり、1回立ち消えになったと思ったらまた復活してきたり、訳のわからないことがいろいろあって、これはちょっと危なすぎるなと危機感が募ってきました。さらに話がどんどん変わって作業量も増えそうで。だけど金額と締め切りは変わらないんですよ。
松本:ええ~。
井口:原稿も届かないし。「変わった分、締め切りを延ばして対応できればいいけど、できなかったらどうするの?」と言ったら、「いや、大勢集めてやれば……」みたいなことを最初に持ってきた彼が言い出しました。
「たくさんの人間で分けたら、最後に誰かが統一作業をしなきゃいけなくなる。それをしなくていいようにするには力のある3人くらいで分けるのが限界ということで最初に仕組んだわけで、話が変わるじゃないか。大勢でやるとして、まとめはだれがやるんだよ」
「ウチじゃできません」
「きみがやらなきゃだれがやるんだよ。きみが持ってきた話だよ?」
「いや、ウチじゃ無理です」
「じゃあ、断ろう」
「いや、大勢集めてやれば……」
とどうにもならないので、最後はかなり無理やりにお断りしました。
で、その年の夏休み、別荘に来ていて、毎年やっている小淵沢のホースショーに家族で出かけているときに、知り合いの翻訳会社の社長さんから電話がかかってきました。「井口さんには言うなと言われている話なので、内緒にしてほしいんですけど。○○の案件、ご存じですよね」「それちょっといろいろあって、無理やり断った話なんですけど」「そういうことなんですか。井口さんが断った話だったら受けなかったのになあ」と言われました。
どこか紹介してくれとJTFに話がきて、そこの会社が受けたようです。「手が足りないんですが、中身が技術系でけっこう難しいし、できそうな人が井口さんしか浮かびません。内緒で手伝ってもらえませんか」という話だったので、「あくまで末端の翻訳者として、訳して納めて終わりだったらやりますよ」とお答えしました。
松本:また最初の話と違いますもんね。
井口:そうなんです。まあ、困っているわけだし、そこの社長さんとはよく飲んでいたので、お値段は度外視して「払える範囲でいいですよ」と言ったんですけど、結局、手が足りたということで、私はやらずにすみました。
年明け、その社長さんにJTFの役員新年会で会ったので「あれどうなりました?」と聞いたら、「まだ続いてます。いろいろと追加で話が入ってきて終わらないんですよ」とゲッソリした顔をしていました。断って正解でした。まあいろんなことがあります。「ヤバそうだ」と思う感覚が大事ですね。
齊藤:大切ですね、嗅覚というか。
井口:そうそう。ヤバいと思ったら逃げる。個人の翻訳者ってそんなに余裕がないので。断れるのがフリーランスのいいところですからね。
松本:それでこそのフリーランスですからね。
井口:社員だと、「これは会社としてやると決めたんだから、いくら君が反対してもやるんだよ。担当は君だからね」とかゴリ押しされて、「勘弁してよ、反対しているの俺なのに」っていう話になることがありますけど、個人の場合はやるもやらないも自分ですから。
初の出版翻訳『iCon』と日本語文法
井口:2005年に@ニフティの翻訳フォーラムが閉鎖になりました。いわゆるパソコン通信が終わったわけです。2005年というともう完全にネットの時代ですからね。これと前後する形で、ウェブ上にも、さきのさんと私の共同主宰で翻訳フォーラムを作りました。多少紆余曲折はありましたが、この形で翻訳フォーラムがいまも存続しているわけです。
同じ2005年だったと思うんですけど、三上章さんの『象は鼻が長い―日本文法入門』という古い日本語文法の本を読みました。三上さんは、英語の文法と同じようなイメージで日本語文法を見るのではなく、また、古文の文法でもなく、現代日本語として文法を考えたらこんなふうなのではないかということを言い出したはしりのような人です。
この本のタイトルになっている「象は鼻が長い」という文章は、「は」と「が」が両方入っていて、けっこう不思議な構文になっています。それに代表されることをいろいろと取り上げているこの本を読んで、日本語文法を勉強すべきだろうと思いました。それまでは私も、「は」と「が」は基本的に主語につくくらいのイメージしか持っていなくて、よくわかっていなかったんですけど、そういう話じゃないんだなというのがこの本でよくわかったからです。
そこをスタートにそのへんを勉強していた2005年の夏、スティーブ・ジョブズの非公認伝記『iCon』(原題、訳書名『スティーブ・ジョブズ―偶像復活』)を翻訳することになりました。書籍の翻訳を定期的にてがけるようになった1冊目です。これは山岡洋一さんのご紹介でした。
あとから聞いたら、はじめに山岡さんのところに話がいったらしいです。山岡さん自身やりたかったけれど、ほかの本の仕事がつまっていて、スケジュール的にできない。じゃあ誰か紹介してもらえませんかと頼まれて「この本は技術とビジネスの両方がわからないと訳せない。技術がわかる翻訳者はいっぱいいる。ビジネスがわかる翻訳者もいっぱいる。でも両方となるとなかなかいない。実績はないけど彼ならできそうだからやらせてみたら」と言ってくださったようです。
たぶん翻訳フォーラムにいろいろ書いていたのを読まれていたからではと思います。山岡さんも何回か翻訳フォーラムに書かれていたこともあって、読みには来られていましたから。
この『iCon』は、「象は鼻が長い」で学びはじめた「は」と「が」の違いを意識し、そこに気をつけながら訳しました。
この本は英語の原書も分厚いのですが、日本語だともっと分厚くなります。バイト数では日本語に訳すと縮むんですけど、日本語って行の幅が大きく必要なので、本は厚くなってしまう。判型も日本はビジネス書の判型が決まっていますが、英語の本はもっと大きかったりする。判型が小さくなれば当然その分ページが必要になりますから、だいたい本が厚くなるんですね。原書が厚いと日本語版がほんとにぶ厚くなるわけで、出版社としてはいろいろと苦しいんです。
まず厚くなると値段が高くなってしまって売れないとか、最悪の場合、本が割れることもある。『iCon』くらいならそうでもないかもしれないけど、後にてがけるスティーブ・ジョブズの公認伝記をもし一冊にまとめたらすごく厚くなって、読んでる途中でべりっと割れちゃうんですよ。だから上下巻にせざるを得ないんです。
そんなこんなの事情があって、「実は短くして薄くしたい」という話が出版社からありました。「場合によっては章を削るとか、内容を削ることも含めて」と言うから、「それは極力やりたくありません。訳文を短くしますから」ということで、これでやることになりました。
助詞の「は」は焦点をコントロールする力が強いので、その「は」をうまく使うと複数文にわたって訳文がぐっと短くなるというケースがけっこうあります。私はテトリスと呼んでいるんですけど、文章の組み方を変えると複数文にわたってパラパラパラっと消えていくものがあって、全体が短くなる。そのテトリスの意識を初めて持ったのがそのころでした。
お世話になった方々
井口:産業系の翻訳がまだすごく忙しかったところに書籍が加わったので、『iCon』をやっている間はめちゃくちゃ忙しくなりました。
私自身が忙しくなった直後に、実は、妻が会社で特別プロジェクトに入ってくれと言われ、朝早く出ていって夕飯も外で食べてきて家に帰ってきたらバタッと寝る、週末も基本的に仕事に出るという状況になりました。子どもたちはまだ小学生で手がかかります。
結局、仲のいい級友の家2軒、昨日はこっち、今日はあっちという具合に学校の帰りに行って遊んで、夕方遅くに私が迎えにいって帰ってくるみたいな形になりました。子どもたちを迎えに行くと、「よろしければどうぞ」と晩御飯のおかずをいただいたりして、とても助かりました。そんなわけで、『iCon』の訳者あとがきには「子どもの友だちのお宅にお世話になった」という謝辞を書いています。このあとは訳者あとがきの書き方が変わったので、謝辞を書いていませんけど。ともかく、あの2軒に助けていただかなかったら乗り越えられなかったなと思います。
『iCon』は話題になって、ノンフィクションとしてはベストセラーと言われるくらい、たしか2万部か3万部くらい売れました。するとあちこちの編集者が読んで、「あの本を訳したの井口さんですね。じゃ、こういうのどうですか」とお話がくるようになり、その後は年に1~2冊ずつ出版翻訳も並行してやるようになりました。
それに加えて、あとから聞いた話ですが、どうも山岡さんが「彼に本の仕事を振ってやってくれ」というようなことを陰で言ってくださっていたらしいです。山岡さんは直接そういう話はしないのでわからないんですが、山岡さんが亡くなったあと、けっこうよく仕事をしている編集者と話をしたら、「山岡さんからそういうことを言われて井口さんともお付き合いするようになったんです」とおっしゃっていました。そんなこともあったりして、山岡さんには知らないところでずいぶんお世話になっていたようです。
リーマンショックで仕事がゼロに
井口:独立して8年、2006年にJTFの常務理事になっています。常務理事はそこから10年間やりました。
2008年は、いわゆるリーマンショックの年です。2008年末くらいからちょっとおかしくなってきたなと思ったら、2009年の年明けから仕事が来ない。1月、2月、3月、ほとんどありませんでした。
松本:それは直もそうだし、翻訳会社からも来ないってことですか。
井口:直はゼロになりました。とにかく翻訳などに出している余裕がないという感じでした。翻訳会社からのものもガックリ減りました。ちなみにソースクライアント直の仕事は6カ月連続でゼロでした。
松本:それまではある程度コンスタントにあったわけですか。
井口:はい、仕事の半分はソースクライアント直でしたから。年度末ってけっこうかきいれ時で、予算が余ったら翻訳に回そうというものが出てきたりしていたんですが、そのかきいれ時の年度末もまるで仕事がない。
齊藤:ええー。
井口:もともと私のソースクライアントは夏休みの時期はあまり仕事がなかったんですけど、その直後の秋にリーマンショックで、結局9カ月くらいほとんど仕事がない状態でした。
松本:ほぼ1年ですね。
井口:そうですね。イメージとして売上は例年の2割かなという感じでした。
齊藤:それはすごい。
井口:はい、もうどうにもなりません。1カ月、2カ月とか、ぎりぎり3カ月くらいは、まあこういうこともあるよ、いい機会だから勉強でもしようかとかツール作ろうかとか考えていましたけど、さすがに3カ月以上も続くと、ヤバくない?と思いました。
松本:同じ9カ月でも、1カ月後に必ず仕事があるってわかっていれば休めるじゃないですか。でもわからないわけですもんね。
井口:そうです。これ、もしかしたらダメかもしれないと。
松本:ずっと仕事ないかもしれないと。
井口:そうなんです。今までやっていたソースクライアントとも回復しない可能性さえありました。付き合いの深かった数社からは、「今は会社がメチャクチャの状態になっているので、とても仕事は出せません。回復したらまたお願いしますので」と言ってもらっていましたけど、それだってどうなるかわからないし。
松本:仕事を出したくても、なかったら出せないですからね。
井口:そうそう。回復したら出しますから、といっても回復しなかったら?って話じゃないですか。翻訳の値段を叩いて安くしろ、みたいな話になるかもしれない。上から言われたら現場はなかなか逆らえないし。ということでこのときはけっこうきつい状況でした。(次回につづく)
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◎プロフィール 井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye 翻訳者(出版・実務) 1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。 2005 年からは出版翻訳も手がけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『イーロン・マスク』上下(文藝春秋、2023年)、『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。 ◎インタビュアープロフィール 松本佳月(まつもと・かづき) 日英翻訳者/JTF ジャーナルアドバイザー インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle 版、2022 年)。 齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito 実務翻訳者 電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネーター、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。 |