日本翻訳連盟(JTF)

「私の翻訳者デビュー」井口耕二さん編

第18回:出版翻訳主体に舵を切る

スティーブ・ジョブズ関連書など数多くの出版翻訳や実務翻訳をてがけている井口耕二さんの「私の翻訳者デビュー」を、松本佳月さんが主宰するYouTube「Kazuki Channel」からインタビュー記事にまとめて、長期連載で紹介します。井口さんは大学卒業後、一般企業に就職。2年の社内留学後、正社員として働きながら副業翻訳で自らの実力を確認し、1998年に専業翻訳者として歩み始めました。第18回は、廃業も考えたこと、出版翻訳主体に舵を切った経緯、JTF理事を退任した理由などについて伺いました。
(インタビュアー:松本佳月さん・齊藤貴昭さん)

引退を考えたことも

井口:スティーブ・ジョブズの公認伝記で疲れてしまったようで、翌2012年に入ったあたりから仕事を再開しても、なかなか調子が戻りません。やっぱり無理しすぎていたんでしょう。実は妻との間では、このころ、「今後どうしよう」という話をしていて、三つの道を考えていました。

一つ目は、前と同じように産業翻訳を主体として、書籍は年に1~2冊という感じで仕事をしていく。

二つ目は、産業系は細るに任せて出版翻訳を主体にする。その背景には、ジョブズの公認伝記が終わった後、出版翻訳の打診が増えていたことがあります。話題の本をやると目立つので、編集者の目にとまり、「あの人にお願いしようかな」というようなことが増えるわけです。今後も当分は打診が多い状態が続くだろうという雰囲気で、年に1~2冊ではかなり断ることになってしまう。逆に、出版翻訳を主体にしたとしても、たぶんそれなりにやっていけるぐらいの冊数の打診はいただけそうなので、出版翻訳主体に舵を切る。そういう道もあると思ったわけです。

三つ目は、引退です。もうやめるという話も家庭内では出ていて、妻にも「やめてもいいよ」と言われました。ジョブズの本がすごく話題になり、印税もそれなりの額が入って、税金をびっくりするぐらい取られてもかなりのお金が手元に残ったので、子どもたちの教育資金や老後のお金など、贅沢しなければ早期引退しても何とかやっていけるだろうというのもありまして。妻はまだ仕事を続けたいから、当分の生活費は妻の収入でまかない、教育資金などは私の印税収入から出せば何とかなるというわけです。仕事がかなりしんどかったので、やめる選択肢もかなり真剣に考えました。

齊藤:そうだったんですね。

井口:そうなんです。翻訳フォーラムではいろいろなセミナーやレッスンシリーズなどを4人でやっているんですけど、実は私の出番って一番少ないんですよ。ジョブズの公認伝記の仕事のあと、「いや、実は、やめようかっていう話も出ているぐらいで、正直、あれこれやる元気がない」と翻訳フォーラムの仲間には言っていたので、できる範囲でいいからと配慮してくれたわけです。

松本:たしかに、私もけっこうレッスンシリーズに参加させていただきましたけど、Buckeyeさんにはお目にかかったことがなかったです。シンポジウムだけですね。最後にお目にかかったのは骨折されたときですから。

井口:レッスンシリーズも、たまにちょっと顔を出したこともあるんですけど、いろんなところで私をアテにしないで企画を立てるようにしてもらっているというのが、実は正直なところです。

出版翻訳主体に舵を切る

井口:そんなわけで、引退も選択肢の一つだったんですけど、まだ52歳でしたから、さすがにちょっと早いかなという思いがありました。一方、産業系の仕事は、続けるならお客さんのメンテナンスがいろいろ必要だし、それなりに気を遣います。収入的には、産業系中心のほうがお金になるんですけどね。

出版系は、ほんと、お金になりません。私が翻訳しているのは一般向けで読者がたくさんいるような本ですから、初版部数がけっこう多くてそれなりの額になります。それでも、ジョブズの公認伝記みたいに宝くじが当たったようなものは別として、一般的には3~4カ月かけて1冊訳して、初版だけだったら100万円いきません。一般向けでなければ下手したら1冊20万円とか30万円、もっと少ない可能性だってあります。私の場合でも1冊訳して初版では100万にはならないということは、年間3冊から4冊で300~400万円にも達しないわけです。幸いにも増刷率は高いのですが、増刷がかかっても基本的に片手の指が余るぐらいにしかなりません。お金のことを考えたら、産業系主体に仕事をする、もともとの形のほうがいいわけです。

でも、自由度が大きいのは出版系。それに出版系は、営業的なやり取りなど付随する仕事がずっと少なくてすみます。私はやっぱり訳しているのが好きなので、自分にとっての面白さという意味では、自由度が高くて訳している時間が増え、付随仕事の時間が減る出版系のほうがいいことになります。さらに、教育費などのメドも立ったし、そういう出版系のほうで求められるような形にちょうどなったしで、出版翻訳主体に舵を切ることにしました。

私は産業翻訳で専業化した最初からずっと、求められるところへ動くのを基本にしてきました。分野など対応の幅がそこそこ広かったということもあり、一般翻訳の英日という、ある意味一番いろいろな仕事があって携わっている人もたくさんいる分野の中で、私を求めてくれるところを探してウロウロした格好で、訳す内容はずいぶんと変わりました。内容は変わっているけど方針は最初から変わってないわけで、その方針に従うならやっぱり出版系中心だろうと考えたわけです。

産業系のほうはお客さんのメンテをしないでいればだんだん減っていくので、新たに増やすことを考えなければ何年かすれば減るだろうと思いました。今はもう、産業系の仕事はソースクライアント直の付き合いが1社残るだけになっています。

齊藤:そうなんですね。

井口:そこの仕事がなくなったら産業系はやめようかなという感じです。どこかから話が来て、面白そうだと思えて、値段的に折り合いがつくなら、絶対にやらないわけじゃありませんけど、自分から動かずにタナボタでそんな話が来るなんてことはまずないので、おそらくないだろうなと思っています。来るものは拒まずですけど、呼び込みもせずにいい話が来るほど世の中甘くないので。

ですから、売上は産業翻訳主体のころに比べたら、ずいぶん減っています。産業系の翻訳者で出版系をやってない人は、出版系のほうが儲かると思っている人が少なくないみたいで、勘違いしているなと思うことがけっこうありますが、実際、出版系はあまりお金になりません。毎年「宝くじ」に当たったらすごいけど、当たらないから宝くじなので。でも個人的には、仕事自体の自由度も大きいし、時間的なやりくりもつけやすいので、まあまあいいかなと2012年から出版翻訳主体でやっているわけです。そうすると、だんだんと産業系の仕事は減っていきます。

JTF理事を退任した理由

井口:産業翻訳も、もともと、ある意味すごく端っこにいて、変わったところで仕事をしていたわけです。「井口さん、現状わかってない」とか言われたくらいで。私としては「たしかにメインストリームのところはそういう状況でしょうね。それは知っているけど、その脇にはそうじゃない世界もあるよ」ということだったんですけどね。

でも、JTFの理事としては、メインストリームのところがわからないと困るんです。そこの問題点や現状を、翻訳会社の人たちといろいろやり取りしていくなかで、少しでもいい形にできないか、みたいなことをしていたわけなので。ですから、基本的にはネットをウオッチするとか、翻訳者が集まるランチに出ていくとかして、メインストリームの情報を集めるようにしていました。

ネットも、Facebookとかだと、「類友」で自分と近い、ある意味メインストリームからちょっとずれたところの人が多かったりするんですけど、Twitter(現X)だともうちょっと広がるし、旧2チャンネルとか、ウェブサイトでいろいろつぶやいている人たちの話などをパラパラ見ていると、「だいたいこんな感じかな」とわかります。

とはいえ、もともと積極的に情報を集めないとメインストリームのことがわからないような状況だったのに、加えて産業系の仕事をあまりやらなくなってしまったわけで、情報収集が大変になってしまいました。正直なところ、自分の仕事と直接関係ない情報を一生懸命集めるのって、けっこうな手間なんですよ。それもあって、結局、2016年でJTFの常務理事を退任しました。

理事になってから14年、常務理事になってから10年ですけど、ああいう役職をずっと同じ人がやるのもどうかとも思っていましたしね。長くやることでいろいろな人が話を聞いてくれるようになっていく、長くやっている人の言葉にはそれだけ重みが出るみたいなところもあるので、いい面もあります。けれど、ひとりの人間の見方って、どうしてもある程度偏ったりするので、役職は交代していくのが本来だという思いもあります。そういう意味では長すぎたと思うぐらいやったので、もう交代でいいだろうと、退任を決めました。

メインストリームの状況など、今もtwitterを見ていたりしてある程度は入ってくるけれども、それはあくまで単純に入ってくるだけです。理事をやめたら、ちゃんと押さえていると言えるレベルまで自分から求めようとか、メインストリームをつかめているなと思えるような形で情報を集めようとか、そういうことをしなくなって、ずいぶん気が楽になりました。

齊藤:長かったですからね。

井口:翻訳業界ってある意味、山脈なんですよね。富士山みたいにひとつの山がボーンとあって、その裾野から中腹、頂上にみんなが散っているんじゃなくて、山がいっぱいあって、それぞれ状況が違っている。生えている木も違うし岩の山もあったりして。そのいろいろな山の裾野から中腹、頂上まで人が散っているわけです。一人ひとりの目標としては、どれかの山の頂上付近にいられたら、けっこういい世界がある、そういう話なのだと私は思っています。

そういうことなので、自分と違う山の状況って、自分の仕事には不要です。極端なことを言えば、いっぱいある山の中の、自分がいる「この山」のことさえわかっていればいい。もう少しいくつか押さえてあると、この山がたとえば噴火してなくなったりしたら、じゃあ隣に行こうか、ということができるから、多少は周りも押さえたほうがいいけど、普通はそのくらいで済んでしまいます。

だけど、業界団体でどうこうするって話になると、一番メインの山々は状況をひととおり把握しておかなきゃ、みたいな話になるので、けっこう気にしていたし、エネルギーも使っていたんだなと、やめてみて思いました。

ノンフィクション本の「旬」

井口:そんなわけで、今は出版翻訳主体で、産業系は細々とやっている感じです。出版翻訳の仕事は幸いほぼ途切れなく続いているかな。1冊も手元になくてボンヤリしていた時期は、もしかしたら1カ月くらいあったかもしれませんが、ちょっと記憶にありません。逆に、1年以上先まで仕事の予定が埋まっていたこともありました。

ノンフィクションは基本的に旬ものが多いので、納期は短くなります。ジョブズの公認伝記をやった年に打診を受けた別の本も、「1年後の年明けくらいからなら始められます」「いや、それは遅すぎるので」という話で流れましたけど、どうしてもそうなりがちです。文芸書などは、今出さなきゃ、みたいな感じにあまりなりませんが、ノンフィクションは社会の動きなどと密接に関わっていたりするので、出版時期が遅れると、タイミングを外しちゃって全然ダメってことがあるんですね。

実際私がやった本で、初版が最初の計画の半分も出なかったものもあります。訳している間にいろいろ状況が変わって、この本を出すのはやめるんじゃないかと思ったら、出してはくれたけど、初版部数が最初に聞いた話の半分か3分の1で、印税は当然それだけ減ってしまいました。

齊藤:タイミングが遅れると情報鮮度が落ちちゃうんですね。

井口:そうなんですよ。話題になったものを著者が書いて出して、そのときはまだ話題になっていたとしても、そこから翻訳版を作って出すのに何カ月かかかる。この間に何かトラブって、ガタガタガタっとなっちゃうと、日本語版のほうは今さら出してもねぇってことになってしまいます。

現在(2021年9月)は、2冊抱えている状態です。1冊は今進めていて、その次が決まっている。その次の本が終わるまでに、また新しく次の本が決まれば、私としては仕事がつながっていくわけです。(次回につづく)

(「Kazuki Channel」2021/09/10より)

←第 1 回:翻訳者としての基礎をつちかった小中高時代

←第 2 回:スケートに明け暮れ、長い大学生活を経て就職

←第 3 回:会社からアメリカ留学、最初の3カ月は苦労の連続

←第 4 回:英語漬けで猛勉強したアメリカ留学から帰国

←第 5 回:会社員と二足のわらじで翻訳者への第一歩を踏みだす

←第 6 回:育児問題をきっかけに専業への道を考え始める

←第7回:専業翻訳者になるために取引先と分野を広げる

←第8回:会社を退職して専業翻訳者になる

←第9回:専業翻訳者としての基本方針を決めて開業

←第10回:選択と集中―「やること」と「やらないこと」を決める

←第11回:超大型案件に忙殺された一年

←第12回:多忙な日々でのオンとオフ、時間とお金の使い方

←第13回:書籍『実務翻訳を仕事にする』を出版

←第14回:JTFの理事に就任。仕事場を再び自宅へ戻す

←第15回:出版翻訳をてがけ始める。リーマンショックでは大きな打撃

←第16回:「高品質高単価」を維持するために

←第17回:スティーブ・ジョブズの公認伝記を翻訳

◎プロフィール
井口耕二(いのくち・こうじ)a.k.a. Buckeye
翻訳者(出版・実務)
1959 年生まれ。東京大学工学部卒業。オハイオ州立大学大学院修士課程修了。大学・大学院の専門は化学工学。大学卒業後は大手石油会社に就職、エンジニアとしてエネルギー利用技術の研究などをしていた。会社員と翻訳者の二足のわらじを経て 1998 年にフリーランスとして独立。守備範囲は医薬生物を除く工学全般およびビジネスの英日・日英。翻訳作業は自作の翻訳支援環境 SimplyTerms(公開)で行う。 2005 年からは出版翻訳もてがけている。翻訳フォーラム共同主宰。2002~2016 年 (社)日本翻訳連盟(JTF)理事。かつてはフィギュアスケートの選手(シングル、アイスダンス)で、現在は自転車ロードレースにはまっている。訳書に『イーロン・マスク』上下(文藝春秋、2023年)、『スティーブ・ジョブズ』I、II(講談社、2011 年)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』(日経 BP 社、2010 年)、『リーダーをめざす人の心得』(飛鳥新社、2012 年)、『PIXAR』(文響社、2019 年)、『ジェフ・ベゾス』(日経 BP 社、2022 年)など、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社、2001 年)、共著書に『できる翻訳者になるために プロフェッショナル 4 人が本気で教える 翻訳のレッスン』(講談社、2016 年)がある。

◎インタビュアープロフィール
松本佳月(まつもと・かづき)
日英翻訳者/JTF ジャーナルアドバイザー
インハウス英訳者として大手メーカー数社にて 13 年勤務した後、現在まで約 20 年間、フリーランスで日英翻訳をてがける。主に工業、IR、SDGs、その他ビジネス文書を英訳。著書に『好きな英語を追求していたら、日本人の私が日→英専門の翻訳者になっていた』(Kindle 版、2021 年)『翻訳者・松本佳月の「自分をゴキゲンにする」方法: パワフルに生きるためのヒント』(Kindle 版、2022 年)。

齊藤貴昭(さいとう・たかあき)Terry Saito
実務翻訳者
電子機器メーカーで 5 年間のアメリカ赴任を経験後、社内通訳翻訳に 5 年間従事。その後、翻訳会社にて翻訳事業運営をする傍ら、翻訳コーディネーター、翻訳チェッカー、翻訳者を 10 年経験。現在は、翻訳者としても活動。過去の翻訳祭では、製造業でつちかった品質保証の考え方を導入した「翻訳チェック」の講演など多数登壇。
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